インヴェンツィオンとシンフォニアについて
Part14
武久源造
前回は、私がこのコンサートに使おうと思っているチェンバロのストップの組み合わ
せについて具体的に例示しつつ、説明しました。かなりややこしい話なので、読まれ
た方の中には、うんざりされた方もあったことでしょう。だとしたらごめんなさい!
しかし、ともかくも、これらの音色を使うためには、事前の準備が重要です。繰り返
しになりますが、今回用いるチェンバロには2段の手鍵盤があります。このチェンバ
ロの音の数は61ですので、鍵盤の数はその2倍で122になります。これらの鍵盤は、温
度変化によって動きが悪くなることもありますので、それを万全に手入れする必要が
あります。
さらに、このチェンバロにはジャックが4列あります。ということは、音の数の4倍で
244本のジャックがある、ということです。つまり、それだけの数の爪を最良の状態
にヴォイシングしなければならないわけです。
また、弦は3セットありますので、音の数の3倍、即ち合計183本となります。これを
全て適切に調律する必要があります。これだけの準備をして初めて、前回述べたよう
な音色を、十分に使える状態になるわけです。なかなかしんどい話ではあります。
毎回コンサートの前には、必死になってこれらの作業をするのですが、やはり、全て
の面で、常に完全な状態に、とはなかなか行かないこともあります。そういう場合に
は、いくつかのレジストレーションは使えない、あるいは、演奏しづらいということ
にもなりかねません。
もちろん、そのような事態にならないよう、今回もベストを尽くしますので、安心し
てくださって大丈夫ですよ(苦笑)。
さてここで一言、チェンバロ演奏における楽譜の問題について触れておきましょう。
今回の演目は、皆さんおなじみの曲ばかりだと思います。中には、インヴェンツィオ
ンならば全て憶えている、という方もいらっしゃると思います。そういう方が私の演
奏を聴かれた場合、「あれっ、楽譜と違うぞ」と、いぶかしく思われる個所がいくつ
かあるかも知れません。そうです。私は、いわゆる「バッハの譜面通り」には弾いて
おりません。これにはいくつかの理由があります。まず、前述のようにバッハはこれ
らの曲を何度か楽譜に表しておりますが、その都度少しずつ変えています。良く知ら
れた例としては、『インヴェンツィオン』の第1番。今残っているバッハの自筆譜で、
最後に書かれた楽譜では、この曲の3度跳躍の部分が埋められています。つまり、主
題のド・レ・ミ・ファ・レ・ミ・ド・ソの中の、ファ・レとミ・ドのところが、ファ
ミレ、ミレドと3連譜で書かれているのです。このように、元々3度富んでいるところ
を、間を埋めるように音を入れて繋ぐのは、フランス風の装飾の中の、いわゆるティ
エルス・クレ(3度走音)と呼ばれる技法です。『インヴェンツィオン』第1番に、こ
のティエルス・クレを付けて弾くのが、バッハが最後に到ったこの曲の姿、即ち最終
稿であるのなら、皆それを尊重してそのように弾くべきだ、と主張する学者も多いの
です。しかし、世の大半の演奏家は、そのようには弾かず、バッハがより初期に書い
た装飾なしのシンプルな形で弾いています。これは、どちらが正しいのでしょうか。
……
誤解を恐れずに言うなら、音楽を含めてあらゆる芸術表現に、正誤の違いはありませ
ん。したがって、ここでも「どちらが正しいか」という問題の立て方そのものが間違
っているのです。正しいか、正しくないか、という区別は音楽にはない。あえて言う
ならば、好きか、嫌いか、という区別があるだけです。仮に、バッハその人に質問で
きたとして、「これは、どちらの形で弾けば良いのでしょうか。シンプルな方でしょ
うか、装飾付の方でしょうか」と訊いたとしても、おそらく、「君のお好きなよう
に」という答えしか返ってこないでしょう。
しかし、今私たちが子供たちを教育する立場からすると、いつも、「君のお好きなよ
うに」と言ってばかりでは巧くいかない、というのもまた事実です。ある種の先生と
しては、やはり立場上、「これが正しい弾き方である。だから、あっちの弾き方は間
違いである」と言わねばならない。この、見かけ上の矛盾が、いわば、世界のクラシ
ック音楽界を混乱に陥れている元凶なのです。
「ということは、武久さんは、バッハの譜面を無視しても、自分の好きなように弾
く、ということなのですか」という質問がどこかからやってきそうですね。
答えはもちろん「否」です。私は、可能な限り、バッハの残した譜面は全て見ます。
これは何も、バッハに限ったことではありません。過去の巨匠たちの音楽に向かうと
きは、いつもそうです。恋人から来たラブレターででもあるかのように、それらの楽
譜の細部の意味まで理解しようとし、さらには、裏に隠された背後の意味まで推測し
ようと、毎日頭を搾っているのです。そうして、いざ自分が弾く時には、まるでラブ
レターに返事を書く時のように、興奮を抑えつつも、相手を尊重し、相手に嫌われな
いように用心してかかります。しかし、ラブレターの場合もそうですが、ただ、相手
の顔色ばかりうかがっているだけでは、やはり、いずれは嫌われてしまうでしょう。
時には、こちらも大胆に「あなたが本当に言いたいのはこういうこと?」、「でも、
私はこう思うのですよ」と言うような気持ちを込めることもある。
いや、言うまでもなく、バッハは私などがその足元にも寄れないほどの達人です。な
れなれしく口をきくのも憚られます。しかし、バッハの霊(そのようなものがあると
して)と対話することは、たぶん許されるし、バッハもそれを喜んでくれるのではな
いかと思うのです。この記事の最初の方で述べましたように、目に見えない者とのコ
ミュニケーションが、古代以来、西洋でも東洋でも、我々の教養の第一歩であるとす
れば、そしてたとえば、孔子が示唆しているように、亡くなった人が、今なお微かに
発しているメッセージを聞き取ろうとすることが、我々生きている者の最重要の務め
であるのならば、音楽は、その最も美しい手段となりうる、と言えるでしょう。
さて、では、私が『インヴェンツィオン』第1番に関して、いかなる結論に至ったか
ということですが、私は、世に行われている大半の演奏とは違って、ただシンプルに
は弾きません。かといって、多くのバッハ学者が主張しているように、この曲の3度
を全て3連譜で埋めることもしません。では、どうするのか。…
それはコンサートにお出で下さって、皆さんどうかご自分の耳で確かめてください。
第1番だけではなく、私は、随所で、一風変わった弾き方をしたり、楽譜にはない装
飾を入れたりしています。もしも、それらを判断する基準があるとすれば、それは、
チェンバロと言う楽器、そして、バッハの音楽を、私がどれだけ愛しているか、それ
が、独りよがりの独善的な思いに堕することなく、開かれた生きたコミュニケーショ
ンを生み出し続けているかどうか、という点に求められるでしょう。そして、それを
最終的に判断してくださるのは、聴き手の皆様御一人御一人に他なりません。
ところで、バッハは、当時としては異例なほどに、ヨーロッパ各国の先人、および、
同時代社の作品の楽譜を集め、自ら写譜しています。コレクターとして、かなりの
「おたく」だったと言えるでしょう。したがってバッハの作品を弾く時は、我々も、
視野を広げて、少なくともバッハが知っていた範囲の音楽は知っておくべきです。そ
れらの音楽の語法を掌中に収めることで、「バッハなら、ここでこういう風に弾いた
可能性もあっただろうな」と、創造の翼を広げることができるからです。しかし、お
そらく、それだけでは足りないでしょう。バッハ以後、ハイドンもモーツァルトも
ベートーヴェンも、シューマンもショパンもブラームスも、または、ドビュッシーや
ラヴェル、チャイコフスキやスクリアビン、はたまた、滝廉太郎や山田幸作にしても
みんなみんな、『インヴェンツィオン』を始めとするバッハ作品を弾き、それを憶え
自分の音楽の糧としてきたのです。(あまり知られていないことですが、滝廉太郎は
ピアニストとして、バッハの『イタリア協奏曲』を日本初演していることは、注目に
値します。)我々の演奏は、これらの先人たちの営みの延長にあるのです。したがっ
て、たとえば、ベートーヴェンがバッハをどのように弾いたのか、ということも、
我々は知っておくべきだと思います。(ベートーヴェンの演奏法に関しては、その弟
子のツェルニーの書き残した物から、ある程度推測することができます。)または、
これもあまり知られていないことですが、ショパン、リスト、ヒラーという、当時の
3大名人が、バッハの『3台のチェンバロのための協奏曲』を、ピアノを使って公開
演奏した際(おそらく、復活初演)、彼らがどのようにバッハの譜面を弾いたのか、
ということに思いをはせてもいいでしょう。我々は、今日バッハを弾く時、バッハの
霊だけでなく、これら、その後に現れた巨匠たちの霊とも対話するべきだと、私は思
っています。
さて、対話というものは、相手の言うことばかり聴いていては成り立ちません。こち
らも雄弁に語らなければならないのです。バッハを弾く時、私が日本人であること、
そしてそれゆえに私が血の中に持っている(はずの)邦楽の音階や音組織への傾斜を
も、私はけっして捨てようとは思いません。また、私が世界各地で経験した民族音楽
特に、20世紀後半が産み出した最高の音楽(と私が信ずる)ジャズの体験を、遠慮な
くバッハにぶっつけます。そうでないと、私の全霊を打ち込んだ誠実な対話にはなら
ないからです。しかし、このような対話では、必ずしも何かの答えが、直ちに得られ
るわけではありません。むしろ、何らかの答えを得ることが目的ではないのです。
対話をしようとする心の在り方そのものに意味があるのです。対話を根気よく続けて
いるうちに、「私は、こう弾こう!」という確信が、理屈ではなく、何かとても暖か
い気持ちと共に、湧いてくる。こういうときに、彼らとの対話の意味を痛感するので
す。これが、私にとって、創造的演奏の産まれる瞬間です。
このように、音楽に限らず、目に見えない者、耳に聴こえない者との生きたコミュニ
ケーションこそが、我々の未来を創り出す唯一の手段であると、私は信じているので
すが、しかしそれにしても、そこに愛がなければ、上に書いたことは、全て空しい雑
音でしかなくなるでしょう。この「愛」という言葉は、そのまま「キリスト」という
言葉に置き換えても同じことなのですが、…
うーん、これ以上書くと、『コリント人への手紙』の中になだれ込んでしまいそうな
ので、今回はここまでにしておきます。
(全文・武久源造 写真,一部校正/改行・optsuzaki)