笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります
2014-03-31
立派なブロッコリーが
昨日のことになりましたが、最強トリオ;)が連れ立って、お父さんの畑のおすそ分けに
ブロッコリーを届けてくれました。伝言を口々に伝えてくれるのですが、みんな自分が伝えたいんでしょう。
ちょっとした工夫で大きくなったそうなんですが、立派に育ったものですね...
や、ブロッコリーだけではないですョ・笑
2014-03-30
2014-03-29
2014-03-28
2014-03-27
VAN~KEN'S EYE
新しいブランドは折々で知っていかないとわからなくなりますが、その一方で少し地味ですが変わらないスタイルというものもありますよね。
石津謙介というと無論「VAN」の創始者、ということになるのでしょうけど、僕にとって魅力的なのはその後に企画したプライベートなブランド、「KEN COLLECTION」です。
阪神大震災の直後に、僕にとってひとつ節目になる出来事があったのですが、そのため数日家を空けることがありました。小さな旅になるべく小さな荷物で出ようと考えたとき、最初の目的地で出会ったのがこの「KEN COLLECTION」のミニリュックでした。
以来、苦楽を共にした愛用のバッグでしたが、それだけに傷みもきびしく、いくつかオークションで中古で替えを求めたりしながら、今に至ります。
今日はさるところでシャツを2枚、求めました。VANとKEN'S EYEです。KEN COLLECTIONは、ちょうどその間の時期の商品と思います。いずれもタグがついた新品で驚きましたが、年数からみてもちろんストック品です。二枚で1200円、申し訳ない。
KEN'S EYEには、かつてのKEN COLLECTIONのような創意が感じられませんが、どこかその匂いのする実用ぶりは持っています。頑固な石津氏のイズムをそのまま具現化した商品を喜ぶ方は、今では少ないのかもしれませんが、厳しい時代だからこそ、そんなこだわりのある商品も復刻してほしいと思います。もちろんメガネフレームにも。
石津謙介というと無論「VAN」の創始者、ということになるのでしょうけど、僕にとって魅力的なのはその後に企画したプライベートなブランド、「KEN COLLECTION」です。
阪神大震災の直後に、僕にとってひとつ節目になる出来事があったのですが、そのため数日家を空けることがありました。小さな旅になるべく小さな荷物で出ようと考えたとき、最初の目的地で出会ったのがこの「KEN COLLECTION」のミニリュックでした。
以来、苦楽を共にした愛用のバッグでしたが、それだけに傷みもきびしく、いくつかオークションで中古で替えを求めたりしながら、今に至ります。
今日はさるところでシャツを2枚、求めました。VANとKEN'S EYEです。KEN COLLECTIONは、ちょうどその間の時期の商品と思います。いずれもタグがついた新品で驚きましたが、年数からみてもちろんストック品です。二枚で1200円、申し訳ない。
KEN'S EYEには、かつてのKEN COLLECTIONのような創意が感じられませんが、どこかその匂いのする実用ぶりは持っています。頑固な石津氏のイズムをそのまま具現化した商品を喜ぶ方は、今では少ないのかもしれませんが、厳しい時代だからこそ、そんなこだわりのある商品も復刻してほしいと思います。もちろんメガネフレームにも。
2014-03-26
笠岡地区まち協11th役員会
まちづくり協議会、14時から役員会でした。
年度末のためか、欠席者多数。これだけは「仕方ない」と、同意しませんからね。
長いことお世話くださった事務主任が交代されて、この1年PTAの文化広報部を共にした、お・さんが入って来られました。
引き続き一緒に活動することになるなんて、思ってもなかったです。こうして、少しずつ仲間が増えていくと、イイですね。
まち協の花として(も)、笑顔でがんばってくださ~い^^
2014-03-25
2014-03-24
2014-03-23
上野真 ベヒシュタイン・ピアノ・リサイタル 2014.3.7 尾道しまなみ交流館 / ジャズ大衆舎 on web #26
上野真 ベヒシュタイン・ピアノ・リサイタル 2014.3.7 尾道しまなみ交流館
昨年11月同じ尾道しまなみで聴いた、上野真のリサイタルには魅了された。あのときは、19世紀前半の楽器2台を弾いたが、今回は、1906年製のベヒシュタイン。尾道東高校が所蔵する楽器を借り出しての演奏会だった。当然、前回演奏会の続編と位置づけられる。
開演5分前に滑り込んだにもかかわらず、真ん中のいい席がとれた。
プログラムは、ベートーヴェン、ショパン、ラヴェル、ドビュッシーと前回同様、ヴァラエティ豊かだ。このピアノから多彩な音色や表現を導き出そうという、演奏者の意図が読み取れる。
弾きだされたピアノの音は、たしかに、古くはあったが、それでも思ったほど古くはなかった。前回聴いたシュタイン・フォルテピアノ(1820)は、現代のピアノとは違う美意識のもとで作られた、ピアノとは違う楽器であるように思えたが、100年前のベヒシュタインは古雅ではあっても紛れもなくピアノの音であった。ただ、音はやや小さめで少し枯れた風情で上品、現代のピアノのような力強さやきらびやかさは感じられない。中高音域の速いパッセージが愛らしく聴こえる。
というわけで、前回よりも、私の関心は、演奏そのものに、つまりピアニストにむかうことになった。上野真というピアニストは極めて優秀な演奏家だ。どの作曲家のどんな作品でも、これしかあるまいと思わせるほど的確な表現をする。演奏の技術も抜群だ。
ショパンの「練習曲」作品10は、ちょうど1週間前に横山幸雄の演奏を聴いたばかりだったが、どちらも甲乙つけ難い、見事なものだった。上野真は、極めて切れ味鋭く、曲の性格を浮き彫りにする、硬質のショパンだ。ラヴェルは、「水の戯れ」「オンディーヌ」が演奏されたが、色彩感ゆたかで、鳥肌が立つほどの美しさと気品の高さ。ラヴェルが素晴らしかったためか、ドビュッシーはピンとこなかったが、アンコールで弾かれたリストの「スペイン狂詩曲」は見事だった。
ただ、馬鹿みたいな曲ではある。前回も最後はリストの「メフィスト・ワルツ」だった。おそらく、最後にお客さんを楽しませようという配慮と、このピアノの表現の「限界」のようなものに迫ろうという意図によるものだろう。テクの素晴らしさを見せつけようという気持ちもなくはないだろう。私としては、前回、シュトライヒャー(1846)で弾かれたブラームス、あの哀愁と深みある表現で締めて欲しかった。
でも、いい演奏会だった。
(全文・主宰 写真,改行・石原健)
昨年11月同じ尾道しまなみで聴いた、上野真のリサイタルには魅了された。あのときは、19世紀前半の楽器2台を弾いたが、今回は、1906年製のベヒシュタイン。尾道東高校が所蔵する楽器を借り出しての演奏会だった。当然、前回演奏会の続編と位置づけられる。
開演5分前に滑り込んだにもかかわらず、真ん中のいい席がとれた。
プログラムは、ベートーヴェン、ショパン、ラヴェル、ドビュッシーと前回同様、ヴァラエティ豊かだ。このピアノから多彩な音色や表現を導き出そうという、演奏者の意図が読み取れる。
弾きだされたピアノの音は、たしかに、古くはあったが、それでも思ったほど古くはなかった。前回聴いたシュタイン・フォルテピアノ(1820)は、現代のピアノとは違う美意識のもとで作られた、ピアノとは違う楽器であるように思えたが、100年前のベヒシュタインは古雅ではあっても紛れもなくピアノの音であった。ただ、音はやや小さめで少し枯れた風情で上品、現代のピアノのような力強さやきらびやかさは感じられない。中高音域の速いパッセージが愛らしく聴こえる。
というわけで、前回よりも、私の関心は、演奏そのものに、つまりピアニストにむかうことになった。上野真というピアニストは極めて優秀な演奏家だ。どの作曲家のどんな作品でも、これしかあるまいと思わせるほど的確な表現をする。演奏の技術も抜群だ。
ショパンの「練習曲」作品10は、ちょうど1週間前に横山幸雄の演奏を聴いたばかりだったが、どちらも甲乙つけ難い、見事なものだった。上野真は、極めて切れ味鋭く、曲の性格を浮き彫りにする、硬質のショパンだ。ラヴェルは、「水の戯れ」「オンディーヌ」が演奏されたが、色彩感ゆたかで、鳥肌が立つほどの美しさと気品の高さ。ラヴェルが素晴らしかったためか、ドビュッシーはピンとこなかったが、アンコールで弾かれたリストの「スペイン狂詩曲」は見事だった。
ただ、馬鹿みたいな曲ではある。前回も最後はリストの「メフィスト・ワルツ」だった。おそらく、最後にお客さんを楽しませようという配慮と、このピアノの表現の「限界」のようなものに迫ろうという意図によるものだろう。テクの素晴らしさを見せつけようという気持ちもなくはないだろう。私としては、前回、シュトライヒャー(1846)で弾かれたブラームス、あの哀愁と深みある表現で締めて欲しかった。
でも、いい演奏会だった。
(全文・主宰 写真,改行・石原健)
2014-03-22
タイヤ館でもらったってマジっすか!?
思わぬ方から思わぬものが届くものですね、ああ、おかしや。
最近は声優さんが変わって、あの絶妙の間合い感が薄くなったので、一時に比べると、ロペネタだけで業務連絡することは減りました。(例「あらららら、その度数、別作じゃね?」「いやいやいや。」「マジっすか!?」)
が、娘の担任の先生がハマっていたので、家庭内ではまだ公用語であります。
そんなタイヤ館のCMには、こだわりのあるセンパイがでてきます...。
2014-03-21
2014-03-19
横山幸雄 ショパンを弾く(第1回)2014.2.28 アップル・ツリー / ジャズ大衆舎 on web #25
横山幸雄 ショパンを弾く(第1回)2014.2.28 アップル・ツリー
私たちの街の中心部に小さなホールが出来たという噂を耳にしたのは、たしか11月くらいだった。しかも、スタインウェイ・ピアノを備えているという。そのホールで、ピアノのリサイタルが催されるというので、興味津々で聴きに行った。
「アップル・ツリー」と名付けられたこのホールは、4階建のビルの4階に位置する。折り畳み椅子が60脚ほど並べられ、そのむこうに立派なピアノがあった。横山幸雄というピアニストはたいへん有名だが、これまでライヴはおろか録音でも一度も聴いたことがなかった。自分の関心とすれ違ってきたからだろう。このホールで、12回にわたって、ショパンのピアノ作品を年代順に全曲演奏するのだという。1回目は、ショパン15歳から20台前半の作品が取り上げられた。
最初に「ロンド作品1」と「マズルカ風ロンド作品5」が演奏された。どちらも、グランドスタイルの派手な曲で、いかにも若書きといった感じだ。同世代のシューマンの作品1は「アベッグ変奏曲」だが、曲の感じが似ているな、と思った。音楽家として立つということは、社交界にデビューするということだったのだろう。そのためには、こうしたグランドスタイルの手持ち曲が必要だったのかな。
次の作品6と作品7の「マズルカ」集は、一気にショパンの世界だ。肩の力の抜けた等身大のショパンだ。続いて、嫋嫋たる情緒をたたえる「3つのノクターン」作品9、そして、最後は、ヴィルトゥオジティ大爆発の「練習曲集」作品10。そのいずれもがショパンそのものでありながら、一方でまるで、3人の作曲家が別々に作った曲であるかのごとく、実に多様で豊饒な世界だ。
横山幸雄は、曲の性格を的確に把握して、それぞれの曲の個性を見事に描き分けた。会場が小さく、ごく近い距離で聴くことができたことも手伝ってか、音楽の量感、陰影、表情が、濃やかに描出されるのを、堪能することができた。また、どんな小曲でも、聴かせどころを巧みに演出するのも、さすがコンサート・ピアニストというべきだろう。
聴き飽きたつもりでいたショパンだが、思いがけない発見をしたみたいだった。まだ、ポロネーズも、バラードも、スケルツォも出て来ない。数か月に一回のペースで演奏会は催されるようだ。楽しみだ。
(全文・主宰 写真,改行・石原健)
2014-03-18
僕、馬 I am a HORSE 公文庫カフェ inside
前回、入り口までをお目にかけた「僕、馬 I am a HORSE @公文庫カフェ」ですが、会期が終了したので、中の様子もアップします。
ルーペが上から吊るされていて、コンタクトシート(ベタ焼きといったほうが、ムカシ人間の僕には馴染むんですが・笑) をつぶさに見ることができます。
ベタには、小さくても圧倒的な情報量があります。また、撮り進んでいった前後の関係性や、前回の私どもの店内で展示した時に、見ていたつもりで見落としていた部分にも気がついたりします。
「旅」を俯瞰する感覚も、日が経ち、展示を重ねてこそ自信を持てたものかもしれません。絞りこまれて写真集になったのと全く別の表現の方向が、そこにはありました。
最初、部屋のインテリアの一つのように溶けこみすぎている、と感じましたが、こちらから分け入る姿勢がなければ、フレームの一つひとつに刻まれた何物も見出すことができないという設定に、優しい皮肉を見た気もします。
ところで、このBloggerの写真の扱いが最近変わったようで、ひとつ困ったことがあります。それはアップする写真に対して、勝手に明るさが変わる設定が入るようになったことです...。
わざと暗めのトーンにしている写真まで、平均をとった明るさに無理やり変えなくてはならない理由は、なんなのでしょう。暗い写真には暗くしたい理由があるのに、それこそ興が醒めます。
2014-03-17
クリスチャン・ツィメルマン・ピアノ・リサイタル / ジャズ大衆舎 on web #24
クリスチャン・ツィメルマン・ピアノ・リサイタル 2013.12.27 三原芸術文化センターポポロ
11月尾道で催された上野真のリサイタルで聴いた、シュタイン作フォルテ・ピアノで演奏されたベートーヴェンのソナタ30番の印象が忘れ難くて、その後、自分がもっている30番のレコードをあれこれ聴いていた。どれも悪くはないが、かといって、あの時の印象を補ってくれるようなものに出遭うことができなかった。
木の箱の中で、ころころ、あるいは、かたかた、と鳴るフォルテ・ピアノの音は、いかにも古雅で、19世紀前半のウィーンという、過ぎ去った時代とどこか鄙びた風情を聴く者に空想させるに十分であり、それが仮に見当違いのものであったとしても、幸福でいられるような、素敵な幻想を誘うものであった。現代のマッチョな全天候型のピアノを標準とするなら、このフォルテ・ピアノは使い勝手の悪い、玩具に等しいものとけなすことは難しくないだろう。まあ、それもありだろう。でも、私にとっては、自分が生きている時間と場所という限定を越えて何か違うものを垣間見せてくれるようで、わくわくするような、不思議な体験であった。
加えて、大井浩明のリサイタルを企画したこともあって、この冬はいくつかのピアノの演奏会を聴きに行った。
最初にクリスチャン・ツィメルマン
ベートーヴェンの最後の三つのソナタ、すなわち30~32番を演奏するというこのリサイタルには、もちろん興味をそそられた。はじめこのリサイタルは、12月6日(金)が予定されていた。この日私は都合が悪く、諦めていたが、演奏者が腰痛を理由に、27日(金)に延期された。それを知ったのは、演奏会のわずか2日前であった。この日は都合がよかったので、迷うことなく聴きにいくことにした。
三原ポポロには初めて入った。自分の席は、中央やや奥の下手寄りで、決して悪い席ではなかったが、ふだん、小さな空間で演奏会を催したり、聴きに行ったりしているので、ステージ上にある、スタインウェイ・ピアノがひどく小さく見える。驚くことに、しかし、ひょっとしたら当然なのかもしれないが、この広いホールの客席がほぼ完全に埋まった。
演奏会に先立って、ツィメルマンからの「メッセージ」が、日本語に訳され、女性の声で読み上げられた。私は、東日本大震災についての弔意・激励か、あるいは、自分が腰痛で演奏会を延期したことへの詫びか、と想像したが、全然違った。簡単にいうと、自分の演奏を録音・録画するな、ということであった。もちろん、そんなことを演奏者が演奏前に言わなければならない背景には、そのような「被害」に遭っているからなのだろうが、聴きに来ている者としては、いささか興醒めであった。
さて、演奏会は30番から始まった。始まって私は一瞬戸惑った。それは、ピアノの音の小ささである。音の量感、表現の細部が、届いて来ないのだ。広い空間の中に音が、あるいは音楽が拡散していくようでちっとも楽しめない。そうした戸惑いのうちにあっという間に終わってしまった。31番もそうだった。休憩になった。聴きに来ていた人々はみな讃辞を惜しまない。不思議だ。みんな何かの暗示にかかっているかのようだった。
それでも、私は最後の32番に期待した。老いることのないベートーヴェンの、のたうちまわる感性と肉体の表現がこの曲にはあるからだ。
しかし、演奏は期待とは大きく違った。それは、楽器や会場という物理的な問題だけではないことがだんだんとわかってきた。あえて、即興性という言葉を使おうとは思わないのだが、生まれ出たばかりの音楽のなまなましさ、そんなものはツィメルマンの演奏にはどこにも感じられなかった。すべて計算されたかのように、冷然としていた。バロック期の組曲の、「プレリュード」とか「アルマンド」を連想させる、第一楽章の冒頭部においても、洒落っ気も何らかの感興ももよおしては来ない。テクニックが優れているからか、どこにも破綻は見当たらなかったかわりに、面白みも感じられない。第二楽章でダンスするかのようにうねる部分もほとんどビート感がないし、まるでグルーヴしないのだ。
こうして、ツィメルマンは、「見事に」ベートーヴェンの最後の三つのソナタを弾ききった。おそらく予定していたことを、きちんと予定通りにこなしたことだろう。会場の多くの人々は、有難いものを聴いた、とばかりに拍手を惜しまない。私は、ライヴを聴きに行ったというより、完璧な技術で作られた退屈な彫刻を美術館へ観にいったような気持ちになった。
ツィメルマンは、先の「メッセージ」の中で、聴者を「友」と言い、何かを「共有する」ことの喜びを語っていた。しかし、そうした親密さは演奏からは伝わって来なかったし、別の場所でも、寸分違わない演奏をするのだろうことが、想像された。
(全文・主宰 写真,改行・石原健)
11月尾道で催された上野真のリサイタルで聴いた、シュタイン作フォルテ・ピアノで演奏されたベートーヴェンのソナタ30番の印象が忘れ難くて、その後、自分がもっている30番のレコードをあれこれ聴いていた。どれも悪くはないが、かといって、あの時の印象を補ってくれるようなものに出遭うことができなかった。
木の箱の中で、ころころ、あるいは、かたかた、と鳴るフォルテ・ピアノの音は、いかにも古雅で、19世紀前半のウィーンという、過ぎ去った時代とどこか鄙びた風情を聴く者に空想させるに十分であり、それが仮に見当違いのものであったとしても、幸福でいられるような、素敵な幻想を誘うものであった。現代のマッチョな全天候型のピアノを標準とするなら、このフォルテ・ピアノは使い勝手の悪い、玩具に等しいものとけなすことは難しくないだろう。まあ、それもありだろう。でも、私にとっては、自分が生きている時間と場所という限定を越えて何か違うものを垣間見せてくれるようで、わくわくするような、不思議な体験であった。
加えて、大井浩明のリサイタルを企画したこともあって、この冬はいくつかのピアノの演奏会を聴きに行った。
最初にクリスチャン・ツィメルマン
ベートーヴェンの最後の三つのソナタ、すなわち30~32番を演奏するというこのリサイタルには、もちろん興味をそそられた。はじめこのリサイタルは、12月6日(金)が予定されていた。この日私は都合が悪く、諦めていたが、演奏者が腰痛を理由に、27日(金)に延期された。それを知ったのは、演奏会のわずか2日前であった。この日は都合がよかったので、迷うことなく聴きにいくことにした。
三原ポポロには初めて入った。自分の席は、中央やや奥の下手寄りで、決して悪い席ではなかったが、ふだん、小さな空間で演奏会を催したり、聴きに行ったりしているので、ステージ上にある、スタインウェイ・ピアノがひどく小さく見える。驚くことに、しかし、ひょっとしたら当然なのかもしれないが、この広いホールの客席がほぼ完全に埋まった。
演奏会に先立って、ツィメルマンからの「メッセージ」が、日本語に訳され、女性の声で読み上げられた。私は、東日本大震災についての弔意・激励か、あるいは、自分が腰痛で演奏会を延期したことへの詫びか、と想像したが、全然違った。簡単にいうと、自分の演奏を録音・録画するな、ということであった。もちろん、そんなことを演奏者が演奏前に言わなければならない背景には、そのような「被害」に遭っているからなのだろうが、聴きに来ている者としては、いささか興醒めであった。
さて、演奏会は30番から始まった。始まって私は一瞬戸惑った。それは、ピアノの音の小ささである。音の量感、表現の細部が、届いて来ないのだ。広い空間の中に音が、あるいは音楽が拡散していくようでちっとも楽しめない。そうした戸惑いのうちにあっという間に終わってしまった。31番もそうだった。休憩になった。聴きに来ていた人々はみな讃辞を惜しまない。不思議だ。みんな何かの暗示にかかっているかのようだった。
それでも、私は最後の32番に期待した。老いることのないベートーヴェンの、のたうちまわる感性と肉体の表現がこの曲にはあるからだ。
しかし、演奏は期待とは大きく違った。それは、楽器や会場という物理的な問題だけではないことがだんだんとわかってきた。あえて、即興性という言葉を使おうとは思わないのだが、生まれ出たばかりの音楽のなまなましさ、そんなものはツィメルマンの演奏にはどこにも感じられなかった。すべて計算されたかのように、冷然としていた。バロック期の組曲の、「プレリュード」とか「アルマンド」を連想させる、第一楽章の冒頭部においても、洒落っ気も何らかの感興ももよおしては来ない。テクニックが優れているからか、どこにも破綻は見当たらなかったかわりに、面白みも感じられない。第二楽章でダンスするかのようにうねる部分もほとんどビート感がないし、まるでグルーヴしないのだ。
こうして、ツィメルマンは、「見事に」ベートーヴェンの最後の三つのソナタを弾ききった。おそらく予定していたことを、きちんと予定通りにこなしたことだろう。会場の多くの人々は、有難いものを聴いた、とばかりに拍手を惜しまない。私は、ライヴを聴きに行ったというより、完璧な技術で作られた退屈な彫刻を美術館へ観にいったような気持ちになった。
ツィメルマンは、先の「メッセージ」の中で、聴者を「友」と言い、何かを「共有する」ことの喜びを語っていた。しかし、そうした親密さは演奏からは伝わって来なかったし、別の場所でも、寸分違わない演奏をするのだろうことが、想像された。
(全文・主宰 写真,改行・石原健)
2014-03-16
「レオナール・フジタとパリ」にて
もう先々週のことになりましたが、岡山県立美術館で開かれている「レオナール・フジタとパリ1913-1931」に立ち寄りました。藤田嗣治 渡仏100周年記念、とサブタイトルがついてました。
小学校低学年の頃、同じ岡山市の葦川会館で開かれた「近代美術の百年展」で初めて触れた藤田の絵ですが、そこには夥しい数の猫が一枚の絵の中で、お互いを睨み、鋭い歯を見せながら争っていました。
まだ幼かった僕は、「猫は可愛いものだ」というイメージしか持っていなかったので、そんな絵を見てもなおそのまま、「可愛いね」と母に話したのでした。
「可愛いじゃろうか? すごい顔でケンカをしてないかな。よう見てみ。」
そういわれて、初めて違う目で見てみると、どうやら思い込みとは違う世界がそこにあるようでした。目の鋭さ、ヒゲの一本まで描き尽くされた猫。それはただ可愛いという言葉でくくれない、猫の本性。でもそれは猫への憎しみの視線? ...うん、わからないや。
以来、僕にとっての藤田の絵とは、あの日見た「猫」でした。
今回の展示でこどもを描いた絵を見ていた時に、その描写に手を打ちました。それは長年の「猫」への疑問に答えてくれたように感じました。種明かしを是非会場でご覧になっていただきたいです。
そして、「猫」はやっぱり僕を待っていました。「裸婦と猫」の裏側から、再び僕を睨みつけ...。
40年以上前に見た、あの目のままでした。少年だった僕の方は、こんなくたびれたオジサンになっているのに。全く古びることなく、心の深みに潜んでいた猫が、目の前に再び現れました。
もっとも、そんな中年ともなれば、裸婦の美しさもまた、少しは分かるのかもしれないけれどね。
帰り道に撮りました 較べちゃイカンですよ |
2014-03-15
2014-03-14
2014-03-13
2014-03-12
2014-03-11
2014-03-10
大井浩明ピアノ・リサイタルを終えて
大井浩明ピアノ・リサイタルを終えて
大井浩明のような爆発的な才能を紹介するのに、「ピアニスト」という言葉で括って言ってしまうのに抵抗を覚える。高橋悠治や武久源造の演奏会を催したときも、同じようなジレンマを感じ続けていた。もっとも、催す側の私が、これらの音楽家のことを語る何を知っているのか、いささか心許ない。それを承知で、大井浩明の多様な才能のいくつかを、ピアノ一台を弾いてもらうことで、紹介しようというのが、今回の演奏会の大きな趣旨であった。
大井浩明は、まず「現代音楽」の紹介者として世に知られるところとなった。かつて「前衛」とよばれた作曲家たちも、21世紀も14年を経ようとしているいま、あるいは大家として尊敬を集め、あるいはもはや故人となっている者も少なくない。そうした、かつての「前衛」を、ベートーヴェンやシューベルトを演奏するのと同じように、「古典」として捉えて演奏してみようという視角が、大井浩明にはある。
それから、バロック~古典派に、古典として価値の定着した作品群を、正真の価値を見出そうしていこうという、古楽的なアプローチである。大井浩明は、そのために、クラヴィコードやチェンバロ、フォルテピアノを用いる。特筆すべきは、ベートーヴェンの演奏で、32曲あるピアノソナタを、それぞれの時代に用いたフォルテピアノを用意し、全曲を演奏しようというリサイタルのシリーズが、近々完結する。大井浩明は、それにとどまることなく、9曲の交響曲、大フーガを含む17曲の弦楽四重奏曲をも、ピアノ独奏用の編曲版で弾いてしまうのである。これを酔狂と捉える向きもあるかもしれないが、大作曲家ベートーヴェンの全体像を身をもって体現するための、偉大な献身であるように私には思える。
そして、リアルタイムの、まさに現代に生きる作曲家の作品を、有名/無名に関わりなく広く紹介していこう、という側面である。
もちろん、ここからこぼれる大井浩明の才能は多々あろうし、ひょっとしたらご本人としても満足ではないかもしれないが、ひとまず、こういった理解にとどめておくことにしたい。いずれにしても、かつて一人も存在しなかった、「ピアニスト」としてのありようである。
さて、「古典の前衛・前衛の古典」というリサイタルの名は、大井浩明に許しを得て、私が付けた。大井浩明自身は、十全な満足ではなかったようだが、ベートーヴェンの29番と、シュトックハウゼンの10番を、対置させる大胆なプログラムが決まりかけた時に、思いついた。言うまでもなく、「古典の前衛」とはベートーヴェンであり、「前衛の古典」とはシュトックハウゼンである。演奏会では、これに広島県呉市に在住の作曲家、寺内大輔の委嘱新作「地層」が加わることになった。これは、「古典の前衛・前衛の古典」のタイトルの趣旨から逸脱することになるが、前二者に加え、先に触れた、三つ目の大井浩明の姿に対応することになった。
自分が催した演奏会を、自分で批評するのはどうも気が引けてしまうので、シュトックハウゼンの「ピアノ曲Ⅹ」についてのみ、感じたことを少しだけ書いて置きたい。
先に触れたように、大井浩明は、この「きつい」前衛作品を、古典として捉えようとしているということだ。この曲は、1954年に作曲され61年に改訂されている。肘打ち平手打ち等のいわば暴力的な技を頻発させるのは、フリージャズ・ファンの私としては、その後ほどなく現われるセシル・テイラーやわが山下洋輔の方法を連想させる。テイラーも山下も強力でスピード感のあるドラムとサックスを従えた、肉体の饗宴であった。YouTubeに掲載されている映像の中にも、そうしたフリージャズそのもののような演奏もあった。
しかし、大井浩明のやり方は違っていた。初演者のアロイス・コンタルスキーの演奏では22分余のところを、大井浩明はおよそ30分もかけていた。巨漢の大井浩明が猛烈なスピードでこの曲を弾いたら、さぞかし迫力があるだろう、と「期待」のようなものも抱いていた。ところが、大井浩明は、破片のような音を繋ぎ合わせるのではなく、空間に放り出したまま、楽譜を凝視する。長い長い無音の時と炸裂するノイズが交互にあらわれる。それは心地よいものではなかった。むしろ苦痛とある歪んだ感覚をともなう時間だった。でも、それがこの作品が求めるところなのだろう。
この「音楽」が、2014年という時に、何か意味を付与できるのか。そうだ、とも言えるし、そうではない、とも言えるような気もした。
(全文・主宰 写真,改行・石原健)
(全文・主宰 写真,改行・石原健)
2014-03-09
箏と尺八と歌で紡ぐ 春の風 のご案内
奥野純子さん、「風ぐるま」以来、久々にお目にかかりました。
ブログにどうぞ、とポストカードをいただきました、うれしいです。
月末、海の色もすっかり春、でしょうね。
詳細は、こちら、Singing-ran blog。
宮城道雄と葛原しげるに寄せて 箏と尺八と歌で紡ぐ
春の風
箏:岡田明子 尺八:占部三竜 ソプラノ:奥野純子
2014年3月29日(土) 開演/ 第1回 AM11:00 第2回 PM2:00
ところ ”鞆ノ津ギャラリー ありそ楼”3F
2014-03-08
2014-03-07
2014-03-06
僕、馬 I am a HORSE @公文庫カフェへ
先日アップした「僕、馬 I am a HORSE」の公文庫カフェでの展示ですが、
お昼過ぎに行ってきました。久しぶりの岡山の街でした。
岡山に近づくにつれて天気はどんどん荒れてきて、雪混じり、風も重く冷たくなりました。ビックカメラ散策や食事も手ばやに済ませ、まず県立美術館を訪ねましたが、その話はまた後日にします。
旧・日銀跡のルネスホールにある公文書カフェは、ホール入口を横切った先にあります。公文書庫の跡を利用した、いかにも厳重な扉が目をひきます。
中も撮影させていただきましたが、ここから先は、どうぞみなさん訪ねてくださいね~。
12日を過ぎたら、またお目にかけようと思います。
お昼過ぎに行ってきました。久しぶりの岡山の街でした。
岡山に近づくにつれて天気はどんどん荒れてきて、雪混じり、風も重く冷たくなりました。ビックカメラ散策や食事も手ばやに済ませ、まず県立美術館を訪ねましたが、その話はまた後日にします。
いつもどおりの小さなポスターです |
旧・日銀跡のルネスホールにある公文書カフェは、ホール入口を横切った先にあります。公文書庫の跡を利用した、いかにも厳重な扉が目をひきます。
中も撮影させていただきましたが、ここから先は、どうぞみなさん訪ねてくださいね~。
12日を過ぎたら、またお目にかけようと思います。
2014-03-05
はばたき93号・刷り上がりました
最新号の93号、今日納品されました。
もう、自分の力では、これ以上は作れないと感じた前期版でしたが、
みんなの力をそれぞれに借りたこの後期版は、予想もしない方向に
広がりを見せてくれましたね。
編集会議の最後に、見出しに「総力取材」と、ためらいなく付けました。
ほんの一部とはいえ、休石では初めてお目にかけると思います。
これが、わたしたちの「はばたき」です。
2014-03-04
2014-03-03
時々吠えることがある
どうしても抑えきれないときが、ありまして。
今日の場合は、「仕事が楽しくなくなってもらわないように」といわれた瞬間だった。
「あなたは、楽しいか、楽しくないかで、仕事したりしなかったり、してるんですか。」と
口火を切った後は、ちょっと止まらなかった。
でも、なぜ怒ったかは、きっといつになっても伝わらないだろう。
やめときゃよかったかねぇ...。
2014-03-02
春休みの宿題
広報部、シーズンオフ(笑)のお仕事です。
今年のように思い切ってやり方を変えると、次の部員さんには、全く参考にならない資料が出てきます。どこから作るか、制作の手引にならないと、残す意味は無いです。
以前資料をバッサリ減らしたことがありましたが、今回はそろそろ自分の作ったものに対して、取捨選択する時期が来ました。ぱっと提げて歩ける気分(最初、引き継ぎで渡された時、資料の重さにウンザリした・笑)が、目標ですね。
まだまだですが、最初が肝心。新体制スタートまでには、もう少し整理できるかな...。
2014-03-01
僕、馬 I am a HORSE 再び
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