笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2012-11-23

11月上旬に聴いた演奏会二つ/ ジャズ大衆舎 on web #10



11月上旬に聴いた演奏会二つ

風ぐるま 時代を越えて音楽の輪を回す 波多野睦美・栃尾克樹・高橋悠治
2012111()福山リーデンローズ小ホール

 「ことばを贈る」と題した、高橋悠治と波多野睦美のコンサートからわずか1年8ヶ月後に、この二人に栃尾克樹を加えたメンバーのコンサートを、その時と同じ会場に、客として聴きに行くことになるとは思ってもみなかった。しかし、その内容は、バリトンサックスが入ったからというだけではなく、前回とは随分違っていた。
 波多野睦美は、前回のチラシには、「歌」としたが、今回のそれには、「声」とあった。この場合、両者に本質的な違いがあるとは思えないが、それでも、コンサート総体の印象として、前回が「歌」であり、今回が「声」であることに、なかなか説明し難いのだが、不思議に納得がいく。

 コンサートは、パーセルの劇音楽から2曲がまず披露された。「ばらよりも甘く」「ダイドーのラメント」である。どちらも、語りの延長として歌があることを暗示させる小品であり、波多野睦美の歌い(語り)振りであった。この方向性は、後に演奏された、辻征夫の詩に作曲した、高橋悠治の三つの作品や、バッハの「わたしを憐れんでください」にも、引き継がれているように思った。

 波多野睦美は、ロマン派のオペラ歌手のような朗々たる歌唱をけっしておこなわない。ことばは歌を導き出し、また歌はことばに還っていく、そのあわいをこそ、表現しようとしているように思えた。これは、バロックの流儀と言っていいものだろうか。

 バロックの流儀と言えば、栃尾克樹のバリトンサックスの役割である。パーセルやバッハの歌曲で通奏低音的な役割をするのはわかるとして、クープランのヴィオル曲やテレマンのフルート独奏曲を、わざわざプログラムに挙げようとするのだから、もうこれはバロック宣言!とでも言えるような、徹底ぶりである。聴く者としては、ヴィオルやフルートと音色やアーティキュレーションの違いを、楽しむことになる。

 アンコールで演奏された「別れのブルース」は、こういったバロック路線の白眉とも言うべきで、波多野睦美の歌う、「窓を開ければ~」のメロディは、よく知られたままの、いわばコラールの定旋律のようで、高橋悠治のピアノと栃尾克樹のバリトンサックスが、オブリガートのように絡んでいくさまは、バッハのカンタータやブクステフーデのオルガン曲を連想させて、思わずにやりとさせられた。




VAN弦楽四重奏団 2012114() 宝泉寺(福山市神辺町)

 広島交響楽団のメンバーによる弦楽四重奏団の、宝泉寺での3回目のコンサートである。その1回目に感動した私は、2回目のコンサートに、ベートーヴェンの14番をリクエストした。なんとそれが叶えられたのはいいが、仕事が入ってどうしても聴きに行くことができず、主催者と演奏者にたいへん失礼なことをしてしまった。私自身もたいへん悔しい思いをした。これは、やはり仕事が突然入って、フリクションのライヴに行けなかったのと匹敵する悔しさであった。そんなわけで、今回は万難を排し、会場に一番乗りして、演奏者の間近で聴くことができた。

 前半は、コントラバスを加えた弦楽五重奏で、モーツァルト、ヨハン・シュトラウス、そして、ヴィオラが抜けて珍しいロッシーニと、軽いノリの曲が集められていたが、なんといっても、ハイライトは、後半演奏されたバルトークの弦楽四重奏曲第6番であった。もっとも、おおかたの客にとってはその逆であったろうから、演奏者は、四つの楽章ごとに解説を加え、「気持ちが悪くなったら、遠慮無く外へ出てくれて結構です。」とまで言って、たいへんな気の遣いようであった。しかし、その熱気溢れる演奏に、それは無用であったように思う。

 VAN弦楽四重奏団は、本拠地の広島でベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏に取り組んだ。その完結後に、バルトークに取り組むことになったと聞く。まあ、そんなことをことわるまでもなく、前半の心地良さとはまったく異質のバルトークの音楽に、彼らの本音がそこにあることは、そこに集った人々は誰でも、楽しめたか否かは措くとして、すぐにわかったに違いない。

 さて、そのバルトークの6番だが、Mesto(悲しみ)の主題が、四つの、すべての楽章の冒頭に呈示され、重苦しい情感が垂れ込める。それが、楽曲全体を統一的な気分となる。ごつごつした岩場を喘ぎ喘ぎ疾駆するかのような息苦しさがある一方で、民謡風のどこかとぼけた旋律があらわれたり、ナチスの軍靴を思わせるような重々しい行進のリズムがあらわれたり…、第二次世界大戦が勃発した1939年に書かれたというが、暗鬱な時代を生きた作曲家の、見聞きしたものや、生き様そのものが、描き込まれているように思えた。この曲はヨーロッパで初演されることなく、バルトークは楽譜をもって、戦禍を逃れてアメリカに渡り、その地でやっと初演された。バルトーク自身は、二度と故郷の地を踏むことなく、1945年に客死した。

 武久源造に聞いた話だが、ハンガリー人は、ヨーロッパで、ユダヤ人の次に蔑視された民族であったという。

解説を交えつつ演奏を聴いていると、ちょうとそのときに格闘していた、金時鐘(キム・シジョン)の長編詩『新潟』とその印象が重なった。金時鐘が『新潟』を書いたのが1950年代の終わり頃という。ならば、バルトークの6番とは、わずか20年の開きしかない。しかも金時鐘は、この長編詩の原稿が散逸するのをおそれ、小型耐火金庫に入れて1970年に出版されるまで持ち歩いていたという。詩の中には、後年詩人によって明かされることになった、済州島43事件の生々しい記憶とそれを逃れて日本にやってきたことが描き込まれている。20世紀は、戦争と迫害、亡命、ディアスポラの世紀であったことが、図らずも意識された。

VAN弦楽四重奏団の演奏は、スマートなものではなかった。むしろ力いっぱいの、必死の演奏であったというべきかもしれない。しかし、それがおそらくバルトークの真実の音楽の姿なのだろう。たとえばアルバン・ベルク四重奏団あたりが演奏したら、もっと整然とした、あるいはこんなの楽なもんよと言いたげな、「完璧」な演奏になることであろう。でも、それはもはやバルトークではないのだ。

VAN弦楽四重奏団のリーダーと思しきは、ヴァイオリンの鄭英徳(チョン・ヨンド)という、関西弁の在日朝鮮人2世であった。

バルトークと金時鐘…、私の勝手な連想に過ぎないのだろうが、それを仲介してくれたのが、在日2世であったのは、偶然ではないように思うのだが…。

 (全文・主宰 写真,改行・optsuzaki)