来たる7月14日の『ロココの愉悦』で演奏していただくことになっているヴァイオリンの寺神戸亮さんのウェブサイトを開くと、「寺神戸亮はなぜボリビア生まれ?」と興味を惹く疑問句とともに、亮さんの父寺神戸曠(ひさし)氏の著作『ボリビア移民の真実』(芙蓉書房出版2009)が紹介してある。
ヨーロッパ文化の深奥を体現する音楽家と南米のボリビアとがいったい何の関係があるのか。チェ=ゲバラの終焉の地、ペルーとならぶフォルクローレの国、私にとって興味はあるが漠然としたイメージしかもっていないこの国は、はたしてどんなところなのか。そんなことをとっかかりにして、この本を読むことにした。
ところが、読み進めていくうちに、この本は私が関心をもっていることとはほとんど触れあわないのに気づいた。ゲバラもフォルクローレも出て来なければ、音楽のこともほとんど出て来ない。(『椿姫』をラジオで聴いて和むシーンがあるにはあったが…)彼の地で生まれた息子亮氏は、「終章 わが心のサンフアン」ではじめて登場し、慈愛をもって語られるのだが、私たちの関心事である後の偉大な音楽家としての面影は、その片鱗も示されない。
それでは何が書かれているのか。
それは、農業技術者として派遣された著者の、多くの貧しい農民にとんでもない欺瞞を働いて棄民同然に移住を奨励してきた日本という国家への告発であり、長々と続く雨季や自然との闘いであり、軌道に乗らない農業経営への絶望であり、彼の地に適合した作物の模索であり、厳しい現状に何ら積極的な援助の姿勢を示さない日本の政治家や官僚への手厳しい批判であったりする。「終章 わが心のサンフアン」にいたって、家族への愛やそれでも世話になったボリビアでの人々への感謝を描き、ようやくその筆致はいくばくか叙情性を帯びるが、それまでは、研究者らしいまったく硬質な文体である。筆者を突き動かしているものは、冷厳とした怒りそのものだ。だから、決して読むのに快いものではなく、学術的な論述にいささか戸惑いを感じながら、その怒りや苦しみを共有することを読者に迫ってくる。
先に触れた私の個人的な興味は措くとして、ボリビア人が日本人との対立という形で触れられているばかりで、素顔の姿が描かれていないこと、ボリビアの民俗や文化にあまり触れられていないことがやや残念だ。
しかしながら、権力への告発とそれでもボリビアの地を愛さずにはおれない心情は、深い感銘を残す。
さて、冒頭の疑問に立ち返ってみると、父曠氏と息子亮氏とは、まったく違う場所で一家をなした人たちなのだ。そのまったくの関係のなさが、天晴れと言うほかない。
曠氏は著作第二弾として『テロ!ペルー派遣農業技術者殺人事件』(東京図書出版)を上梓しているようだ。権力に対する怒りの炎は、一冊では治まらないということか。続けて読んでみたいと考えている。
(全文・主宰 写真,改行・石原健)