笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2012-10-21

修辞学について

 『インヴェンツィオンとシンフォニア』についての解説文に出てくる「修辞学」と
は、そもそもどのような学問なのか、武久源造氏に質問したところ、次のような説明
が返ってきました。氏の許可を得て、掲載することにします。(主宰)

-----Original Message-----
From: genzoh
Sent: Friday, October 19
Subject: 修辞学について

修辞学Rhetoricには、主に二つのジャンルがあり、一般に旧修辞学と新修辞学という
風に区別されています。
 
このうち、バッハに関係のあるのはもちろん旧修辞学の方です。これは、まず、ギリ
シャで起こりました。初めは、紀元前5世紀にシチリア島で起こった戦争の後の土地
訴訟問題で、多くの裁判沙汰が発生し、そこで、結局相手を言い負かした方が勝つ、
という現実を見た人々が、「相手を言い負かすプロ」の必要性を感じ、それを専門に
研究する学問を育てたのだ、と言われています。つまり、弁護士の元祖ですね。これ
は、その後のギリシャで、異常なまでに発達しました。有名なエレア派のゼノンなど
は議論の達人と言われ、場合によっては相手の矛盾を突いて、白を黒と言いくるめる
ような言葉のアクロバットを好んだ。この修辞の行き過ぎは、そのすぐ後に出たソク
ラテスによって批判されたわけです。修辞学は、しかし、何も裁判で活躍するだけの
ものではなく、哲学を語り、あるいは、物語を創って演じるための、理論的バック
ボーンとして鍛え上げられた。

ギリシャの修辞学を集大成したのは、アリストテレスです。彼は一人でギリシャの諸
学をまとめた大哲人ですけれども、その『修辞学』および『詩学』は、『動物学』や
『植物学』などとともに、その後2千年間、ヨーロッパの学校で古典中の古典として
崇められました。結局、ヨーロッパのルネッサンスというのは、学問的にはギリシャ
古典の復活であったわけですが、中でもアリストテレスの存在は大きかった。

アリストテレスの著作は『修辞学』を含めて殆ど全てが日本語にも訳されていますの
で、我々も簡単に読むことができます。そこには、修辞学の基本要素が余すところな
く解説されています。ギリシャの修辞学は、哲学のための方法であり、また、裁判で
相手を負かすための方法として鍛えられた、かなり生々しいものでした。

このアリストテレスが後の修辞学者にとっての最良の古典となるわけですが、そこで
はいったい何が教えられたのか、簡単に説明します。

まず、自分が言うべきことを見つけ出すインヴェンツィオ。ここで教えられたのは、
裁判では、いかに相手の矛盾を攻撃するか、とか、物語を語る場合、その場に適した
内容をいかに選ぶか、とか、まあ、そういうことですが、これが非常に微細な点に到
るまで、検討された。次に、それを、適切に配列するディスポジツィオ。つまり、
たとえば、弁論の第一声、最初は人々の関心を引くために感情的に訴える部分を置く、
次に、自分の言いたいことを論理的に説明する部分、続いて、予想される反論に対して
自分の主張を弁護する部分、そして、もう一度力強く、自分の主張を再確認する部分、
最後に、再び聴衆の感情に訴えるような気の利いた弁論で結ぶ。
まあ、これが基本ですが、この配列方も、後のローマ修辞学などでは、もっと詳細に
研究されました。これらの配列法は、後に、バロック時代の音楽家に直接影響し、ブ
クステフーデやバッハの自由オルガン作品(トッカータなど)の曲の構造は、全くこ
のアリストテレス以来の修辞学の伝統に則したものでした。 
さて、配列が決まったら、次に来るのは、様々な隠喩法や、いわゆる言葉の彩を用い
て、弁論を装飾するエラボラーツィオ。これがまたすごかった。言語表現をどこまで
も磨こう、という不屈の意志を感じます。その伝統は、今でも続いていて、たとえ
ば、イギリスの小学生は、1年生に入るとすぐに、「蜂のように忙しい」、「鳩のように
柔和」というような隠喩を叩きこまれるそうです。もちろんこういうのは、聖書にも
ふんだんにでてくるわけだけれども、実際に、訴訟沙汰が起こっても、役に立つ。フ
ランス革命が起こったとき、それまでの貴族たちは、どんどん処刑されていったわけ
ですけれども、そのとき、一人ひとり呼び出されて、議会の場に引き出された。そし
て、弁論のチャンスが与えられた。そこで、見事に自分の正当性を立証できた者は、
処刑を免れたようです。つまり、修辞学を心得ているかどうかで、命が左右されたわ
けです。さて、旧修辞学では、装飾法の後、自分の弁論を憶える記憶術が教えられました。
そして、憶えた弁論を、適切な発音と発声で語る技術も、修辞学の大切な分野でした。

さて、ギリシャの後、修辞学はローマの学者たちによって引き継がれます。作者不詳
の『ヘレニスに宛てたる修辞学』、そして、キケロの『修辞学』、また、クインティ
リアーヌスの『修辞学』が有名です。ローマ時代の修辞学は、どちらかというと、
生々しいものではなく、教養人が心得ているべき弁論術、つまり、人前で上手に語った
り、巧みに文章を書いたりする技術を磨く目的で教えられました。それはかなり、微に入
り際に渡った物で、たとえば、弁論の際、話の内容によって、どういう服装で人前に
出るべきか、というようなことも重要視されていました。

ローマでキリスト教が普及するに連れ、福音書など、一連の聖書が書かれていったわ
けですが、その際、ギリシャ以来の修辞法が大いに用いられたのは言うまでもありま
せん。したがって、アウグスティヌスも、キケロの修辞学によって聖書を理解しよう
としたのは、いわば当然のことだったのです。

その後、ヨーロッパの中世では、聖書との関連もあって、ローマ修辞学が重んじられ
ました。しかし、一時的にこの伝統は絶えたかに見えた。それを、大々的に復興した
のがルネッサンスでした。印刷術によって、ギリシャ・ローマの古典が大量に復刻出
版され、ちょっとした人ならば、みんなそれを読めた。ドイツでは、例えばルター
も、彼の聖書研究の集いでは、やはり、修辞学の古典を大いに用いました。それで、ル
ター派の教会学校でも、ギリシャ古典を中心とする自由7科、中でも3科(文法、論理学、
修辞学)が重視されたわけです。そして、4科の方からは特に音楽が重んじられた。
というわけで、音楽と修辞学が結び付くのは、ごく当然の成り行きだった。そのこと
は、ルター派の教会学校で使われた音楽の教科書(その最初のものはリステニウスに
よって書かれました)において、歴然としています。また、ドイツ圏で最初に作曲法
の理論書を表したブルマイスターの一連の著作には、アリストテレスの修辞学かがの
引用がふんだんに見られます。

これ以後150年、バッハが活躍した時代に到るまで、ドイツ圏では、実に多くの音楽
理論書が出版されましたが、そこでは、音楽の様々な技法が、修辞学の用語を用いて
解説されています。つまり、この時代の音楽家は、修辞学の知識なしには、全く仕事
にならなかった、というわけです。

バッハの死後もしばらくの間、この伝統は継続しますが、18世紀後半、ヨーロッパ人
たちは、教会から離れ、古典から離れ、いわゆる世俗革命の時代へと突入していきま
す。それによって、音楽もまた、教会とギリシャ古典の伝統から飛び出していくこと
になります。彼らはあわてて、新しい音楽用語を創出し、新しい概念を生み出さなけ
ればならなかった。そして、日本の明治時代に伝えられた西洋音楽は、その出来立て
ほやほやの音楽理論によって生まれたものだった、というわけです。
 
(全文・武久源造 改行・optsuzaki)