インヴェンツィオンとシンフォニアについて
Part9
武久源造
前回は、音組織について、バッハ時代の枠組みを超えて、少し大きな観点から議論を
展開しました。バッハを論ずるのに、インド音楽にまで言及するのは、少し行き過ぎ
のように感じられるかも知れません。しかしながら、例えば、ベートーヴェンが残し
た日記を読むと、彼がインドの音楽理論を研究していたことが分かります。たしか、
あの『荘厳ミサ曲』を書く前後のことだったと記憶します。音楽における国際性、世
界性を追求したベートーヴェンであれば、これは当然、と首肯できる話ではあります。
一方、バッハは研究者、開拓者、あるいは冒険者であるよりは、むしろ、職人的音楽
家でした。無駄な思弁に時間を費やすことを嫌う、という風な性格であったろうと思
います。しかし、彼が、自分の音楽的宇宙観を可能な限り広げ、それを完全なものに
しようという、不屈の情熱を持っていたことは確かです。幸運なことに、彼が生まれ
たのは、古代以来のヨーロッパの伝統が煮詰められて、いちばん美味しくなったころ
であり、同時に、近代ヨーロッパの合理主義が力強く生まれようとしていたころでし
た。実にタイミングが良かった。そういう同じ時に生まれてきたヘンデル、スカルラッ
ティ、あるいは、テレマンやマッテゾン…。その中で、ヘンデルやスカルラッティは、
ある意味、近代性の方向に大きく一歩を踏み出した。バッハは、その一歩を踏み出す
べく、体を傾けてはいるけれども、かろうじて踏み止まっている、という姿に見えま
す。その微妙な均衡が、彼の音楽に独特のダイナミズムを与えているのです。いわば、
彼の体は大地をしっかりと踏まえつつ、彼の頭は天へと引っ張られている。反対方向
に引き合う力によって、危うく引き裂かれてしまいかねない。彼は、自らの心身を鍛
えて、柔軟で力強い思考の筋肉を育てた。そして彼は、相反する二つの力の、ちょう
ど釣合うポイントに、自分の体を乗せ、美しく揺らいでみせる。そのようなアクロバ
ットを可能にしたのです。彼の音楽を弾いていると、筋肉の実感として、それが伝わ
ってくるのです。
このことは、チェンバロという楽器を考えるとき、さらに大きな意味を持ってきます。
私がいつも言うことですが、チェンバロは、木製の響体に、金属製の弦を張り、それ
を、鳥の羽軸ではじいて発音します。したがって、その音は、木(スプルース、樅な
ど松科針葉樹系の木材が多い)の音であり、金属(軟鉄、真鍮、青銅など)の音でも
あり、そして、鳥(鷲、鷹、鵞鳥など)の羽軸、つまり、動物性蛋白質(硬質ケラチン)
の音でもあるのです。植物、鉱物、動物、この世界の3要素が一瞬に出会って発
音するのです。多かれ少なかれ、全ての楽器はこれらの要素を持っています。しか
し、チェンバロでは、それらのバランスが特にすばらしいのです。巧く調整してやること
によって、そのバランスを微妙に変えながら、いちばんいいポイントに持ってくるこ
とができます。そのとき、チェンバロは、西洋と東洋の境をも超えて、古代以来の音
楽宇宙を体現する器となる。これは毎日、私がわくわくする実感として、味わってい
ることです。
一方、チェンバロの発音においては、エネルギー効率が大変良い。本の5~10kgの
張力で張られた直径0.2~0.8mmの柔らかな金属弦を、長さ5ミリ、幅0.5ミリ程度の
爪ではじく。しかも、実際に爪が弦に触れている部分は、0.1~0.2ミリほどに過ぎま
せん。我々がチェンバロを弾く際、仮にどんなに力を入れたとしても、この0.1~0.2
ミリの接点が受け止められる圧力(ほぼ70~80グラム)以上の物は伝わらないように
できているわけです。これだけの僅かなエネルギーが音の振動エネルギーに変えら
れ、それが、響体によって増幅される。その結果、500人程度のホールなら、十分に響き
を満たすだけの豊かなパワーを生み出すことができるのです。これが例えば、今日の
ピアノであれば、弦はチェンバロの5・6倍の太さの硬質スチール、それを、一本当た
りチェンバロの10倍ほどの張力で張り、大きなハンマーを、指の速さの8倍の速さで
弦にぶっつけて発音しています。響体の重さもチェンバロの5~10倍。そして、弾き
手の力がそのまま伝わる構造になっているので、かなりの大音量が得られる(はずで
す)。ところが実際には、その音量は、チェンバロの何倍も大きいわけではありませ
ん。むしろピアノの魅力は、その大音量にあるのではなく、ピアノ、即ち弱奏の美し
さにあると言えるでしょう。エネルギー効率から言えば、ロスが大きいように見えま
す。しかし、ピアノの場合、演奏者が送り込んだエネルギーの多くは、いわばピアノ
の音のにじみの中に吸収されるのであって、それによって、音の表情の深みを生み出
す構造になっているのです。(フェルトのハンマーによって、倍音がカットされ、その代わりに、
基音がにじむ形で、音色を変えていく。)
では、チェンバロの場合はどうか、というと、その音は、基音と倍音の様々な配合に
よって、美しい結晶を作り出す。あくまでも無駄がなく、清潔である。しかし、そこ
には、ピアノが持っているような、にじんだ表情感はありません。それは、人間の心
理を揺蕩わせられる器ではなく、ちょうど、自然と人間の間にある、ある意味客観的
な音なのです。ピアノはオートメーションの機械工業によって製造され、そして、専
らロマンティックな音楽の器、人間の心理のひだを表現する楽器として用いられた。
大衆と個人の相剋、…、あるときはオートメーションの歯車となり、それがゆえに、
またあるときは、孤独に苦悩する。これが、現代社会を生きる人間の姿を現す一つの
言い方であるとすれば、ピアノは現実的にも、また象徴的な意味でも、極めて「モダ
ン」な楽器であると言えます。しかし今や、我々の文化はモダニズムを後にして、更
なる地平に向かって彷徨い出つつあります。ここにおいて、自然と人間の中間にあ
る、美しい結晶体であるチェンバロの音は、いろいろな意味で、ウルトラ・モダン、ある
いは、ポスト・モダンな表現メディアとなりうる、と、私などには思えてならないの
です。というわけで、古代と超現代、その両方に開いた音。私は、チェンバロの音を
そのように感じているのです。
では、そのチェンバロで、バッハを演奏する際、我々はどのような表現ができるのか。
これについては、また、次回に。
(全文・武久源造 写真,一部校正/改行・optsuzaki)