インヴェンツィオンとシンフォニアについて Part5 武久源造
ここらでそろそろ、今まであえて素通りしてきた大物に取り掛かりたいと思います。
今まで私は、「当時の調律法では…」という言葉を、何の説明もなしに使ってきました。まるで、「それはもう解決済みの問題なので、その通りに受け止めてください」 と言わんばかりに。しかし、実際は少し違います。今回はそこのところを説明しまし ょう。これは、調性の問題に直接繋がることなので、『インヴェンツィオン』を考える際、避けては通れない問題だからです。
今日、ピアノを始め、全ての楽器は、いわゆる平均律によって演奏できるよう調整されています。平均律とは、12の半音の振動数の比が同じになるように配置された調律法です。実際に聞こえる音からすると、平均律では、どの調も、全く同じに聴こえる (はずです)。したがって、平均率で調律されたピアノで『インヴェンツィオン』を 弾くとすれば、理論上、全ての曲を同じ調で弾いても、内容に変化はない、というこ とになります。しかしながらバッハは、15の調を選び、それぞれの調のために、個性的な雰囲気の曲を創っています。『インヴェンツィオン』と『シンフォニア』の各々 第1番は両方ともハ長調ですが、それらは、ほぼ似たような雰囲気を湛えています。 それぞれの曲集の第3番はニ長調ですが、それは、ハ長調とは全く異なる個性を持っています。つまり、バッハにとって、ハ長調とニ長調は、同じ長調であっても、その響きは完全に異なるものだった、ということが分かります。
このことは、バッハの時代に用いられた調律法を実際に再現してみれば、耳で確認す ることができます。今日、我々古楽奏者たちが用いている古い調律法には、ピタゴラス、ミーントーン、プレトーリウス、ヤング、ヴェルクマイスター、キルンベル ガー、 ナイトハルト、ジルバーマン、バロッティなど、かなり多くの種類があります。これらは、16~18世紀に書かれた理論書から導き出された調律法で、最近では、コンピュータ制御のチューニング・マシーンが安価で売られていて、それを使うと調律法の理論 を知らない人でも、これらの調律法の中から好きな物を選んで、比較的簡単に調律することができるようになっています。しかし、私が恐れているのは、単に「昔はそうだったから」とか、「みんながそうやっているから」というような理由で、その内容を深く吟味することもなく、無反省に、古い調律法を用いている、というような状況が、最近あちこちに散見されるようになったことです。
まあそれはそれとして、いったいなぜ、こんなにもたくさん調律法が存在するのでしょう。それは、基をただせば、古代のヨーロッパ人が金管楽器を好んだからです。た とえばトランペットを考えてください。トランペットは、普通に吹くと、その管の長 さに相当する振動数の音が出ますが、さらに強く吹くとオクターヴ上、もっと強く吹 くとその5度上の音が出ます。つまり、基音がドならば、次の音はオクターヴ上の ド、 そして、次はさらに上のソ、ということになるわけです。さらに息の圧力を上げる と、 その上のド、そして、次はミの音が出ます。今までの音を整理するとド以外はソと ミ、 つまり、ド・ミ・ソという3和音が得られるわけです。これが、ヨーロッパ音楽の基本となったことは、周知のとおりです。
さて、こうしてド・ミ・ソが得られると、次には、ソを根音として、ソ・シ・レを作 りたくなります。さらに、レを根音とするなら、次はレ・ファシャープ・ラというこ とになります。このように5度上5度上と続けていくと、 ド→ソ→レ→ラ→ミ→シ→ファシャープ→ドシャープ→ソシャープ=ラフラット→ミ フラット→シフラット→ファ→ド という12の音が得られて、基のドに戻ります。こうして戻ってきたドは、最初のドの 7オクターヴ上のドになっています。1オクターヴ上というのは、振動数で言えば2倍 ですから、7オクターヴ上ならば2の7乗倍、最初が1ならば128ということになります。 一方、5度上というのは、振動数が2分の3倍ということです。上のように、5度を12個 重ねて7オクターヴ上のドに戻って来たということならば、2分の3の12乗してやれば いいわけです。これが無事128になればいいのですが、実はそうはならない。2分の3 の12乗は、129.7463…となり、128より、少し高いドになってしまうのです。このこ とを発見したのが、ピタゴラスだった、ということになっていて、この128と129.7463の差をピタゴラス・コンマと呼びます。
このことは何を意味するのかというと、5度を完全にハモらせていると、全体の響きは、いずれどんどん高くなってしまう、ということ。つまり、5度は少し低めに取っていないといけない、ということです。しかし、それでは美しくハモる5度ではなく なってしまいます。そこでピタゴラス調律では、一つの5度を完全に放棄して、つまり、どこか一つの5度をピタゴラス・コンマ分狭くして、後の11個の5度を美しい純正 5度とした。中世のオルガンなどに用いられたのが、この調律法です。
確かにこうすると、ほとんどの5度は美しくハモる。しかしここに、また一つ困った 問題が起こってきます。それは、このように5度を純粋にしていくと、3度がハモらなくなる、ということです。3度とはドに対するミの音です。ミを得るには、普通に ド・ レ・ミと上がることもできますが、 ド→ソ→レ→ラ→ミと、5度を四つ重ねて得ることもできる。ところが、こうして5度を経由して得られたミは、最初のドとはハモらない。やはり、ハモるミに比べてかなり高くなってしまうのです。この差を、シントニック・コンマと言います。一言で言えば、鍵盤楽器の上では、純粋な5度と純粋な3度は両立しないのです。なかなか厄介ですね。ところが、ルネッサンス時代には、特に3度の純粋さが好まれました。合唱や弦の合奏でそれを作るのは容易ですが、鍵盤楽器でそれを得るにはどうしたらいいのか。
そこで、16世紀の理論家ピエトロ・アーロンは、全ての5度を狭くして、つまり、も う5度の純粋さは完全に放棄して、その代わり、3度を美しく鳴らすことのできる調律法を編み出した。これを我々は、ミーントーンと呼んでいます。ここでも、どこか一つの3度は犠牲にしなければならないのですが、後の全ての3度は美しく響かせられるわけです。
さて、こうして人々は、5度を美しくできる調律法と3度を美しくできる調律法を手に入れた。つまり、ドに対してソを美しくするか、ミを美しくするか、の選択ができるようになったわけです。しかし、多くの場合、これはなかなか決められない。人情と しては、できれば両方程々にハモる調律法を編み出したいものです。そこで、バロック時代に入ると、いろいろな調律法が考案された。それらは、総じて、どこか一つの 5度や3度を犠牲にするのではなく、ピタゴラス・コンマやシントニック・コンマを、 いくつかの5度や3度に分け持たせる、というアイディアでした。つまりそこでは、い くつかの3度や5度がいくらか狭くなる、ハモらないのだけれども、その代わり、ある種の調は、5度も3度もかなり美しく響かせることができる、という工夫でした。例えば、ハ長調やヘ長調を美しくする。その代わり、変イ長調は、かなり汚い、あるいは、 厳しい響きになる、という具合です。どの調をどれくらい美しくするか、また、どの調をどれくらい汚くするか、このさじ加減によって、それこそ無数の調律法が提案された、というわけです。これら無数のさじ加減調律を総称して、我々は「バロック調律」と呼んでおります。
このようにして、バロック時代には、様々な個性的な調律法が行われていたのです が、 これは結局、次の時代になると、全ての5度と3度を少しずつ狭くして、つまり、どこ もかしこも、少しずつ汚い音にして、その代わり、全てを機械的に平等にする、とい う、いわゆる平均律が採用されるようになり、それは、現代にまで続いているわけです。
ところで、バッハの『平均律』として知られた曲集の題名は、原語では Wohltemperierte Clavierとなっています。この意味は、実は「平均律」ではありません。ここで本来バッハが言わんとしているのは、「程よく按配された鍵盤楽器」つまり、上述のさじ加減調律のことなのです。これらの調律法の特徴は、そのさじ加減 によって、それぞれの長調と短調が、かなり個性的に響く、というところにあるのです。
さて、それでは、バッハは具体的にそれぞれの調にどんなイメージを持っていたのでしょう。 それについては、また、次回にお話ししましょう。
(全文・武久源造 写真,一部校正/改行・optsuzaki)
2012/11/12 revisited