我々オルガニストがリサイタルのプログラムを作るとき、考慮せねばならないことは、 実に多岐にわたる。
まず、そこで用いられるオルガンの構造と特色を、細部に至るまで、知らねばならない。オルガンというものは、元々、それが置かれている建物を、一つの音響体に変貌させるための楽器である。したがって、それはその建物に合わせて創られており、当然、1台1台が、規模、構造、ストップの数、ストップの内容、音の特質、時代様式など、どの面から見ても、大幅に異なっているのが通例である。例えば、教会のオルガンであれば、製作者は、その教会の建物は勿論、その宗派や信仰の在り方、礼拝の雰 囲気などを仔細に観察して、そこに最も相応しいオルガンを創ろうとする。信仰の内容と礼拝音楽は表裏一体を成すものだからである。 無論、製作者には、それぞれの美学があり、独自の設計方針もある。彼個人にとっての、オルガンの理想像と、独特な実戦経験とがある。それをいかにして、現場の状況に適応させるか、というところに、彼は創意工夫を凝らすのである。
我々演奏家は、このことを踏まえ、まずはオルガンとその周りの環境を観察し、そこに込められた製作者の意図、および、それを普段使っている人々の気持ちを熟知せねばならない。全てを知ることが無理な場合でも、想像の翼をできるだけ広げて、 「この製作者の意図は、どのようなものだろうか」、 「この教会の信仰は?」と、あれこれ推理をたくましくするのである。
そうして、そこに最も相応しいプログラムを選ぶのであるが、それはただ、そこに最も「はまる」曲を選ぶ、という意味ではない。まだ誰も気づいてはいないかも知れないが、そのオルガンとその教会が、最も生き生きと、美しく響く新たな可能性をも探り当てようとするのである。 つまり、「あの曲を、あのオルガンのあのストップを使って、このように演奏してみたら、どうだろう」 と、日夜頭を搾るのである。そこにこそ、我々オルガニストの創造の悦びがある。
今回、私が選んだプログラムはいずれも、演奏家として世に出て以来30年余、私が最も愛して止まないレパートリーばかりである。それらは既に、私の血肉となって久しい。私は物心ついて以来、教会でオルガンを弾いていた。だから、この環境も、また、これらの曲も、いわば、私の故郷のようなものである。しかし、それでいて私は、今でも礼拝の奏楽をするたびに、身が震える。心中、神に対する恐れに満たされる。また、これらの曲を弾いていると、私はしばしば、感動で目が熱くなってしまう。 それほどに、オルガンを取り巻く場というものは、我々に飽くなき挑戦を仕掛けてくるものであり、 これらのオルガン曲は、数百年の時の隔たりを超えて、新たな命を我々に吹き込んでくれるのである。
というわけで、今回のプログラムの1曲1曲について述べようとすれば、それはどうしても、膨大な文章になってしまう。それはたぶん、私の文章力の無さゆえのことである。 しかしそれは私にとって、「君の愛する人(恋人、子供、親)について述べよ」と言われているのと同じである。 誠実になろうとすればするほど、それを簡潔に述べるのは、やはり難しい。 どうか是非、当日お越し下さって、私の演奏から直に、心のメッセージを感じ取っていただければ、これ以上に嬉しいことはない、と申し上げるしかない。
なお、当日は、曲の合間に、ほんの一言二言、簡単な解説を試みるつもりであります。
武久源造
(全文・武久源造 写真,一部校正/改行・optsuzaki)