笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2014-12-15

その時十歳のわたしは



  その時十歳のわたしは


昭和二十年一月一日
家族揃ってお正月を迎える 両親、姉三人 、妹一人、弟一人

韓国ソウル東大門より一,二キロ離れた日本人部落の一隅。百メートル先を清渓川(セイケンセン)が流れていた。

 学校は二キロぐらい先にあったように記憶している

三歳上の姉と共に十二,三人が集団登校していた。学校は鉄筋の三階建てで、冬にはスチーム暖房で、屋上から京城帝国大学薬学部の教棟、その向こうを市街電車(チンチンデンシャ)が走り街の風景が一望できた。

 三月・・・父の転勤を知る(朝鮮総督府逓信省通信局の電話担当技師)として勤務。

 四月・・・新学期に併せて転勤先の大田(テジョン)に転入学し四学年生となる。

 六月・・・転勤、転校のことを「綴り方」に書き、ラジオ放送に出演した。

 八月一五日 戦争が終決し敗戦であったことを父から聞かされた。暑い午後であった。「これから、どんなことが起こるのか」ともかく、空襲は絶対に無いはずと 安心した気分になった。家族の止めるのを無視して官舎から抜け出た。見上げた空は蒼く深くどこまでも、続いていた。
 
 人の気配はない。戦争に負けたのだから何か怖いことが起こりそうだと幼い頭の中は恐怖に震えていたが、持ち前の好奇心にそそのかされ街を用事もないのにぶらぶらと歩き回り、大田駅まで行ってみた。
帰宅するや否やひどく叱られた後、有無を言わさず父に髪を短く短く切り取られた。別に悲しいとも恥ずかしいとも思わなかった。しかし、家中の雰囲気がとげとげしているのは無性に辛かった。

 数日後であっただろうか、進駐軍(アメリカ人)が来訪し、出張所長の父はその場で連行されジープに乗せられて行ってしまった。
          
 母は「朝鮮中の電話の回線が復旧したら帰宅させてくれるから」と気丈分に言って私たち姉妹を安心させ平然としていた。
                                           
 無用の長物となった防空壕の上にかぼちゃの黄色の花が沢山咲いて青くよく繁った葉の下に大きく育った実が転がり、色づき始めたのもあった。 
 


十月のある夜、父が一晩だけ許されて突然帰宅。内地への引揚げを母と子供達で頑張るよう指示した。

 次の日から準備が始まった。まず、リュック作りである。丈夫な帯芯は姉のミシン手作業で大が四つ、中が二つ、弟の三歳のはごく小さく、出来上がっていった。次は身の回りの品々、鍋にやかん、水筒と壊れない器、箸と茶碗。さて、その次が結婚間近な姉の晴れ着の着物と、洋服の諸々。
当分の食料と梅干、(ワームの置薬)その中には胃腸薬、風邪薬、オブラート、が入っていた。その他、ガーゼ、包帯、三角巾、オキシフル、赤チン...。

 リュックはすぐに満タンとなってしまった。ひっくり返しては詰め、詰めては返して、切羽詰った難儀な作業を、力の乏しい私も自分の物以外は一人判断で詰め、一杯になると蓋をくくって背負って、歩けるかどうかと、部屋の中や廊下をうろうろ行ったりきたりして試した。姉達の頼みもいそいそと手伝って邪魔しないよう気をつけながら、足元の不要な物を除けていった。


十月の中旬帰国する兵隊の最後尾に二等客車が用意され5,6人の兵隊に守られる格好で「大田」の駅を出発、列車はのどかな田園地帯を一路「釜山」へと、途中、駅ではない所で停まったり、停まったまま永く待たされたりした。夕方になって大きな講堂のような所へと誘導され敷かれた藁のござの上にリュックから毛布を取り出して、着ていた服のまま雑魚寝の生活が始まった。

一週間ぐらいは経っていたと思う。「引揚船の順番が回ってきた」と言う情報が耳に入って真っ暗な埠頭へと一列に並んで連行され むやみに明るいサーチライトの中に待たされた後 一人づつ身体検査と荷物の中身の点検である。人々はしずしずと進み建物の中に吸いこまれていく。

 急に母が私に近づき妹と弟の三人を列の外に引っ張りだして、「荷物」の番を口早に言って闇の中に消えていった。 三人の子供達は荷物を囲んで小さくなっておびえていた。

 何処からともなく、母と姉達が現われ検査の済んだ列の最後尾に繋がる。もう大丈夫と私もほっとして母たちの後にならび、引揚船の「興安丸」へと乗船。

ともかく帰国の途に、玄海灘の荒い波の上にと乗り出したのは、翌朝のこと。悪天候と速い潮に翻弄されながら博多港に無事入港し、上陸を今か今かと半日位待った。

検閲後、DDTの洗礼をうけ粉まみれ、貨物列車に乗せられ、途中、広島周辺の惨事に驚き、仰天。次に呉線に乗り換えさせられ、無蓋の石炭の上で転げて落ちないようにと、元兵隊とおぼしき屈強な若者に護られて、岡山の父の実家に全員無事に到着したのは、十月末の未明のことでありました。


十一月の末、父の帰国。  全員の無事な再会を泣いて喜んだ。




(全文本人タイプ、オリジナルは縦書 改行・石原健)

2014/12/17 revisited