笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2013-11-18

林英哲

林英哲

11月9日(土)、「ヒューマンフェスタ2013 in 神石高原」という催しのある、神石高原町の油木高校へ行った。現代の日本太鼓の第一人者である林英哲のライヴがあると、その数日前の新聞で知ったからだ。
会場の体育館に入ると、油木高校の生徒がフロアの前方を占めており、その後の一般席が徐々に埋まり始めていた。ステージ上には、大小の太鼓が所狭しと並べられ壮観である。
行政、学校、PTA等などの幾重にもなる相乗り企画で、関係者の挨拶は15分にも及び、いささかウンザリしたが、それは我慢というものだ。何と言っても彼らが、英哲さんを呼んでくれたのだ、感謝あるのみ。
私が林英哲のライヴに接するのは実に20年振りのことだ。20年前、41歳の林英哲は精悍そのものであった。みなぎるパワーと緻密な構成力で聴く者を圧倒した。その時の鮮烈な印象は今も心に残っている。この日接する林英哲は61歳のはずだ。還暦を過ぎて身体を張って活躍する音楽家を私は何人も知っている。梅津和時や遠藤ミチロウはそれを「売り」にさえしていた。フリクションのレックは、インタビューで老いることへの恐怖や恥じらいを語っていたが、やはり還暦を過ぎて頑張っているようだ。それを考えると、音楽家の年齢は取り立てて問題にするほどのことではないかもしれない。しかしながら、あの巨大な太鼓に立ち向かい、肉体をさらし、体力と気力を漲らせ、一分の隙も感じさせない演奏を聴かせてくれた、林英哲が、20年の時間を経て一定の水準を保った演奏を、いまなおこなすことができるのか、ライヴが始まる前の私は、期待の反面それ以上に不安を禁じ得なかった。ステージの中央奥には、巨大な太鼓が皮面をこちらに向けてそびえている。20年前のステージで見たものと、おそらく同じものであろう。あの時の英哲は、これを見事に操ったのだ……。


さて、そんなことを考えながら、関係者の挨拶を聞くともなく聞いていたが、いよいよ林英哲登場となった。二人の若いサポートメンバーも入って、三人による演奏が始まった。演奏はパワフルで緻密だった。一挙手一投足、否、一筋の筋肉の動きまでも見事にコントロールされているかのようだった。そしてそれは美しかった。おそらく即興の部分は、ほとんどあるいはまったくないものと思われた。若い二人の演奏も御大とぴったりと息が合い、見事であった。しかし、英哲の太鼓の音は、その深みと色彩感において、若い二人を寄せ付けないものがあった。
20年前に観たライヴでは、共演者は、笛・尺八の竹井誠ただ一人であった。今度は太鼓二人、曲によっては三人。一人で太鼓を打ち続けるのは、還暦を過ぎた人間の身体にはやはり、きついことなのかもしれない。だから、サポートに太鼓打ちを三人も従えたのか、と想像されなくもない。しかし、演奏の質の高さは、微塵もそれを感じさせるものではなかったが…。
「トーク&ライブ」と銘打たれた催しのため、90分余りのステージの4割くらいは、英哲の話だった。その話を、勝手に二つに腑分けすると、一つは、日本各地に伝わる「芸能」としての太鼓のエッセンスを抽出して、新しい「芸術」(という言葉は意識的に避けているようであったが)に高めようとする、自分の演奏のあり方について。もう一つは、自分が歩んできた太鼓打ちとしての人生と、若者への示唆、という具合にまとめられようか。
高校生を前にしているということもあってか、たいへん教育的な中味だったように思う。そして、語りの端々に、若い世代に自分の「芸術」(繰り返すが彼はこの言葉を一度も用いなかったが、まとめるとこういう他ないものだと思う)を受け渡そうという、意思や思い遣りが感じられた。
ライヴの最後に、「宴(うたげ)」という曲が演奏された。20年前のライヴでもこれが演奏されたのをはっきりと憶えている。
中央の大太鼓に向かい、客席に背を向けた英哲の姿は、阿修羅のようであり、パワフルでありながら繊細、これほどニュアンスと情感をもった太鼓があるだろうか。ひたひたと疾走する感じも、20年前と変わらない。
素晴らしい、まったくもって素晴らしい。
サポートメンバーに、太鼓打ちばかりを集めたのも、何となくわかるような気がした。
ただ、それでも「宴」を英哲のソロで聴きたかった、そんな心のしこりは、容易にほぐれそうにはないものだった。

(全文・主宰 写真,改行・石原健)