笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2013-02-13

金時鐘を読む / ジャズ大衆舎 on web #12


金時鐘を読む


 去年の夏の終わりに、在日朝鮮人詩人、金時鐘(キム・シジョン)の詩とエッセイを、もう一度読んでみようと思い、いまなおそれが継続している。かつて、集成詩集『原野の詩』(立風書房)を古書店で入手し、一読はしたもののまったくその意味が自分に沁みてこない、と言うより、何が書いてあるのかさえおぼつかず、長く放ったままにしていた。2年前に、金時鐘本人の詩の朗読ライヴに接し大いに触発されたが、もう一度向き合うまでに時間を要した。それは、やはり金時鐘の詩が、生半可な意思をもってしては決して読み解けない、強靱さをもった生命体であったからだ。もちろん、金時鐘は謎解きを読者に課すために詩をものしたのではない。ただならぬ困難や生きがたい在日の生を渾身の力で生き抜いてきた詩人そのものである詩群が、口にのぼせやすく耳に心地よいものであるはずがない、ましてすらすらと意味を汲み取れるほど薄っぺらいものであるはずがないのだ。


 しかし、ここ10年で驚くほど金時鐘の研究は進んだ。おそらく、それは金時鐘自らが、「済州島4・3事件」に関与し命からがら日本に密航したことを告白して、多くの詩の中で大きな謎であったその部分が解明される道筋がついたことによるものだろう。私と同世代、あるいはもっと若い世代の研究者が、すぐれた研究を続々と発表し、それを容易に読むことができるようになっているのだ。細見和之著の『ディアスポラを生きる詩人金時鐘』(岩波書店)は、金時鐘の詩業を俯瞰するのに、『原野の詩』とともに持ち歩く一冊だ。その細見和之が中心になって編集している『季刊びーぐる』(澪標)の第4号は、金時鐘特集で、特に注意を惹くのが、宇野田尚哉・浅見洋子による、幻となった第三詩集『日本風土記Ⅱ』の復元であった。浅見洋子は、もっとも若い世代に属する研究者のようだが、第二詩集『日本風土記』、第三詩集『日本風土記Ⅱ』、長編詩『新潟』に、きわめて詳細な注釈をつけるという試みをやって、なんとそれをインターネットで公開しているのだ。その丹念で誠実な調査と研究の成果は脱帽に価する。これを読むことで、金時鐘の初期の詩世界が、どれほど自分に近づいてきたことか。ほんとうに感謝したい。

私が、目下格闘中なのが、呉世宗(オ・セジョン)著「リズムと抒情の私学 金時鐘と『短歌的叙情の否定』(生活書院)である。この400ページにわたる大著の中で、呉は徹底して方法的であり実証的に、金時鐘の詩を分析する。これは、浅見洋子についても言えると思うが、詩の一字一句を大事にして、金時鐘の詩業を丁寧に意味づけてくれる。とりわけ、金時鐘が大阪で詩作をはじめた1950年代、それは彼らが生まれるとうの昔(私にとってもだが)のことだが、在日朝鮮人を巡る歴史事象を克明に詩とともに照らし出しているのが素晴らしい。そういった、忘れ去られようとする現代史に光をあてることによって、金時鐘の詩は、その時代を経験しない者にとっても、立体的に生身の人間の営みとして、その相貌を明らかにするようだ。若い世代の、わかりたいという希求によって編み出された方法と言えるだろうか


 そこでいつも通奏低音のように、詩の背後に流れ、時に激しく顔を出すのが、「済州島4・3事件」の凄惨な記憶である。金時鐘の詩に描かれた、深い悲しみや慟哭はもとより、喜びや皮肉、貧しくも生き生きとした在日の生も、詩人が経験したこの記憶と無関係では無い、否、それが常に寄り添うようにあるということを、心しておかなければならない。


 私が金時鐘のエッセイでもっとも好きなのは、『さらされるものと、さらすものと』(『在日のはざまで』平凡社ライブラリー所収)だ。神戸湊川高校(定時制)での朝鮮語授業の苦闘の様が生々しく描かれている。「チョウセン帰れ」「なんでせんならんね!」の罵声と暴力の中を、身体を張って荒れる生徒たちの前に立ち、その意味を説く、教師としての金時鐘の姿がある。

 

 正直に言おう。私に勇気があって、その場を耐えたのではない。しいたげられた者のひとりとして、本当におこったときの怒りが何であるかを、私は知っていただけなのだ。

 君達のあれは怒りではない。虚勢だ。その程度の虚勢で「朝鮮語」が追いたてられてたまるか!



 私は、このような場面においても、金時鐘が「済州島4・3事件」を経てその場にいるということを、意識しないわけにはいかない。人間の、しいたげられた人間の、ほんとうの悲しみや怒り、それを持ちえた人のことばなのだ。


 やはり若い世代の研究者、崔真碩(チェ・ジンソク)は、学齢期に朝鮮人として生きるか、日本人として生きるかと、と悩み、喪失していった自己を、やはり朝鮮人として回復していく過程を語り、「植民地主義の持つ同化の暴力によってちりぢりばらばらに分断され、さまざまなはざまで揺れている在日にたちは、今一度、『チョウセンジン』という『陰にこもった呼び名』と在日の総和の和としての『在日朝鮮人』を見つめる詩人・金時鐘氏のまなざしと向き合う必要がある。それはまさに、現在に読み返されるべき在日の希望であるからだ。」(『残傷の音「アジア・政治・アート」の未来へ』李静和編岩波書店)としている。金時鐘の存在は、意識ある若い世代の在日にとって、大きな希望なのだ。

 しかし、日本人である私たちにとっても同じだ。否、立っている場所が違うのだから、完全に同じだとは言えないかもしれないが、それでも同じであると信じたい。詩の力、ことばの力、それが何かを変えうるということ、それをここまで意識させる詩人に他に出会うことがあるだろうか。


 さて、ところで、最後に朗報! 金時鐘に密着したドキュメンタリー番組「海鳴りのなかを」がYouTubeにアップされ1時間40分余の全編を視聴することができるのが、ごく最近わかった。2007年に放送されたもので、私はこれまで見ることなく、悔しい思いで過ごしてきただけに、ビックリするとともに嬉しかった。


 金時鐘の半生が濃淡はあるが網羅的に描かれている。


(全文・主宰 改行・一部編集 optsuzaki)