小山彰太=スガダイロー
12月2日(金)、小山彰太(ds)とスガダイロー(p)のデュオをポレポレへ聴きに行った。
小山彰太は、山下洋輔トリオ時代からたびたび聴いた。山下時代は圧倒的なパワーとスピードを誇っていた森山威男に何かと比較され、いささか気の毒な感じはあったが、その後は、彼らしい少しとぼけた、そして懐が深く味のあるドラミングで、個性が全面に開花した。その素晴らしさは、タイプは違うが、故富樫雅彦にも比肩しうるように思う。
おそらく山下洋輔は、小山の個性を見抜いていたのだろう。俳句や短歌をモチーフにした曲、あるいは、寿限無やピカソの名前に節をつけた曲を演奏していた。森山在籍の頃の硬派一徹のトリオに熱狂したファンは、山下の変節を苦々しく思ったに違いない。しかし、いま考えれば、それは小山の個性を引き出すためのものであったようだ。
スガダイローを聴くのは初めてだ。37歳を若手というには失礼な気がするが、過日の瀬尾高志、竹村一哲同様に、長らく待たれた新しい才能の擡頭は嬉しい。
スガダイローの演奏は、ラヂカル・ジャズのピアニストたちのそれとは、一線を画す。そう、たとえば板橋文夫が、歌を基調としながら、自らが出す音、あるいは共演者の出す音と共鳴して、大きくうなりを伴って音楽を構築していくのに対し、スガダイローの演奏はどこかクールな印象を受けた。即興の組み立て方は、常に方法的で選択的である。クラシック音楽を相当に勉強していたのであろう、抜群に指が動く。ときに、リストやラフマニノフのコンチェルトのみたいにさえ聞こえる。フレーズは、パーカッシヴであったり瞑想的であったり様々だが、それが自然に繋がるというよりも、むしろ一つ一つの部分を無媒介的に繋ぐという感じだ。そして、板橋にあるような、うねる感覚、歌う感覚があまり無いかわりに、時間の流れに音楽が垂直的に介入するようだ。はじき出される音楽は、抽象度が高くむき出しの非情ささえ感じられる。
雑誌のインタヴューでは、日本的なものを意識的に取り込んだり、スタンダードを取り入れたりしたい、ということを語っていたが、少しばかり印象が違っていた。
小山はさすがというべきだろう。スガを十分に引き寄せつつも、起伏と抑揚のある、ある種自然体で、彼らしい滋味を感じさせた。
そうはいっても、ドラムとピアノという組み合わせはピアニストの個性が全的に引き出される形ではない。もしベースが入っていたら、サックスと一緒だったら、あるいはピアノソロだったら、などといろいろと考えた。
それにしても今回も客が少なかった。
福山のみなさん、いい音楽は案外近くにあるものですよ。
(全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)