武久源造、四月
半眼にしたその顔の彫りの深さといったらブロンズ像のようであり、本人はイエス・キリストのようだと言われると誇らしげに語るが、私はなぜか、ダヴィデと闘って敗れた巨人ゴリアテはきっとこんな男であったに違いない、そんなことを連想する。実際、でかいのは顔ばかりではない、延広教会の祭壇の上にチェンバロを傍らにして仁王立ちする姿は、堂々たる巨人の風格を感じさせる。ついでにその語り口も。
あるとき、酔いがまわったつれづれに、指相撲をやろう、と大きな掌を私の顔の前に向けてきた。華奢で小さな手の私にはむろん敵う相手ではなかったが、そのごっつい手はいつも汗をかいているのか、湿っぽくそして柔らかかった。私には、意外に思えた。
生きた音楽は生々しくどろどろしている、そう彼は語る。そのことばと、彼の手を握ったときの感触が重なる。
チェンバロといえば、典雅で繊細極まりない楽器のように思える。たしかにその通りであるが、ある時は駄々っ子のように言うことを聞かないこの楽器をなだめるには、細い女のような指でばかりでは歯が立たない。ツメの先ミリ単位の仕事をこなす精緻さと力ずくでもしたがわせるような強引さも求められる。
彼の手は不思議に両方の力を持っている。
いつも新しい発見を求める爛漫さは子どものように弾む。この日も、オルガンでヴィヴァルディの『春』を思いっきりの茶目っ気で弾いたかと思うと、復元させたばかりの機能を駆使してJ.C.バッハのソナタを奏でた。
打ち上げで、『ゴールドベルク』全曲を、と所望した。すると、あんなの退屈で全曲弾いちゃいられない、と。それでもとしつこく食い下がると、あのチェンバロの機能がすべて復元できたら、と約束を取り付けた。
さて『ゴールトベルク』が響くのはいつになるか、期待して待つしかあるまい。
(全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)
(全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)