笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2012-10-20

インヴェンツィオンとシンフォニアについて Part2

インヴェンツィオンとシンフォニアについて
Part2
武久源造  
 

 
 
今回は、『インヴェンツィオン』という言葉の意味についてお話ししましょう。

バッハは、『インヴェンツィオン』を一気に書き上げたわけではなく、数年に渡って
書き溜めてきた曲の中から選び抜いた15曲に、さらに推敲の手を加えて、一冊の譜本
にまとめたのでした。それは、『ゴールトベルク』のほぼ20年前、彼が38歳の1723年
のことでした。というわけで、『インヴェンツィオン』には、いくつかの初期稿、あ
るいは前駆的なヴァージョンが残されています。たぶん実際にはもっとたくさんあっ
たことでしょう。それらを見ると、いろいろなことが推察されます。たとえば曲名で
すが、バッハはこれらの曲を、最初は『ファンタジア』と呼んでおりました。ファン
タジアという名前を見ると、我々は、たとえばショパンの幻想曲や幻想即興曲などを
連想します。それらの曲は、まさに、「幻想」という日本語訳にぴったりのイメージ
ですね。しかし、バッハが「ファンタジア」と言うとき、それはルネッサンス以来の
鍵盤楽器やリュートのための音楽の伝統に根差した言い方に他なりません。その伝統
においてファンタジアは、しばしば、厳格な模倣対位法を用いた作品を指し示す用語
でした。(時には、比較的自由な和弦様式の曲名としても用いられましたが)明らか
にバッハも、ここでその伝統に則っていることが分かります。後にインヴェンツィオ
ンと改題されるこれらの曲で、確かにバッハは専ら厳格模倣様式によって曲を紡いで
います。普通ならばそれは「フーガ」あるいは「小フーガ(フゲッタ)」と名付けら
れたことでしょう。つまり、これらの曲は、必ずしもフーガではない、と、バッハは
ここで、声を大にして言いたいのです。

これらの15曲を順番に見ていくと、確かに第1番は古風なフーガのスタイル、第2番は
同じく古風なカノンのスタイルで書かれています。ところが、第3番からは、いわゆ
るフーガのスタイルから徐々に逸脱し、自由な模倣対位法が繰り広げられます。やは
り、これらの曲を総称するとすれば「ファンタジア」以外の名前は使えない、という
気がします。ではなぜバッハは、これを「インヴェンツィオン」と改題したのでしょ
う。

このことは、皆さんあまりご存じないと思われますので、少し長くなりますが、ここ
で説明しておきましょう。

インヴェンツィオンというのは、本来修辞学の用語です。修辞学とは、説得力をもっ
て話をする、文章を書く、つまり、対話のコミュニケーションのための学問です。中
世から近世にかけて、ヨーロッパの子供たちが学んだ教養課程、自由7科(自由人が
学ぶべき7教科の意)の内の文系3科に属しています。当然バッハも、オールドルフ
やリューネブルクの教会付属学校において、これらを学びました。文系3科には、他
に文法と論理学がありました。一般教養の自由7科というのは、結局、コミュニケー
ションのための知識と技能であった、と言うことができます。そのうち、文系3科は、
人間同士のコミュニケーションを教えるものでした。中でも修辞学は、最もアクティ
ヴな学問で、そこには雄弁術や文章術、または、人の心にいかに訴えるかという面で
は、心理学的な内容まで含まれていました。

ところで、我々には意外なことですが、この自由7科で、音楽は、理数系の4科に属
していたのです。理数系には他に、算術、天文学、地理学が入っていました。つまり、
宇宙に関する知識、地球に関する知識、そして、そこに内在する数の法則を学んだわ
けですが、音楽は、その数の法則を耳に聞こえるハーモニーの形で具現するものとし
て捉えられていたのです。これら理数系4科は、いわば、目に見えないもの(象徴的
な意味で我々の外部=宇宙や地球、そして、そこに内在する法則、それらを繋ぐ音楽)
とのコミュニケーション法を学ぶための学問でした。

ところが、ルネッサンス以後、人文主義の運動が普及するに連れ、音楽は徐々に文系
の分野に組み入れられるようになります。時あたかも、文学の時代が始まろうとして
いました。ダンテからシェークスピアに到る200年は、各国語による豊かな言語表現、
深い心理洞察を準備しました。そして、バッハが活躍したのとちょうど同じ時期、小
説、物語、詩などを創作する新しいタイプの作家が続々と現れ始めていました。この
流れの中で、音楽は人間の思想や感情を伝達する「もう一つの言語」とみなされるよ
うになり、その技術を研究する音楽修辞学Musical Rhetoricが誕生したのでした。ル
ターが音楽の力を信奉していたために、ルター派の圏内では、音楽修辞学は特に重要
視されました。作曲家は教会音楽を創る際、聖書の内容を、できるだけ具体的、かつ、
説得力をもって表現することを求められました。ルターが牧師の説教と同じ地位を、
教会音楽に与えたからです。。『インヴェンツィオン』という表題は、直ちにそのこ
とを思い出させます。

インヴェンツィオンは、ラテン語のインヴェンツィオ、つまり修辞学の中での第1分
野、=「着想」を意味します。弁論を行う際、あるいは、文章を書くとき、我々はま
ず、自分の言いたいことを、はっきりとした言葉の形で確認しなければなりません。
インヴェンツィオは、その技術を教える分野だったのです。そこから転じてドイツの
音楽修辞学でも、インヴェンツィオンは、一つの曲を支えるに足る楽想を見つけ出す
技術を指していました。ここで注意しなければならないのは、現代の我々にとって、
主題とか主要楽想とかいうものは、作家個人の個性を刻印されたものであり、それは
何よりもユニークなものでなければならない、と思いがちです。しかし、バッハの生
まれたころのドイツの音楽では、主題は何も個性的なものである必要はありませんで
した。むしろ主題は、どこにでもあるような、一見つまらないものであっても良かっ
たのです。そのつまらないものから、華麗な大作、あるいは、洒落た一品を紡ぎだし
てこそ、作曲家の技術が讃えられたものでした。バッハの『インヴェンツィオン』で
も、例えば第1番の主題は、それ自体としては何の変哲もない旋律です。また、第8
番の主題は、よくあるトランペット音型です。しかし、それらを使ってバッハが曲を
展開するとき、それらの主題は、この上もなく個性的な、他に類を見ないユニークな
輝きを発する。ここにこそ、バッハが「インヴェンツィオンの技術」として、生徒た
ちに学んで欲しかった秘密があるのです。

しかし、『インヴェンツィオン』の中には、主題自体が既に個性的な旋律であるよう
な物も含まれています。第15番の主題はその顕著な例でしょう。ここには当時流行の
イタリア・スタイルの歌唱的旋律方が見られます。バッハの生きた18世紀、作曲家は
中世的な職人から、個性を主張する近代的芸術家へと、そのイメージを変容させつつ
ありました。その新しい潮流は、まず、イタリアから押し寄せてきたのでした。


イタリアといえば、ちょうど、バッハがインヴェンツィオンをまとめていたころ、ヴ
ェネツィアでは、例のアントーニオ・ヴィヴァルディが、後に作品8としてまとめる
ことになる、あの有名な『四季』を創作していました。そしてこのヴィヴァルディの
作品8の出版譜には、「ハルモニアとインヴェンツィオの試み」という副題が付され
たのでした。ここでヴィヴァルディが言わんとしているのは、ハルモニア、つまり、
音楽と、インヴェンツィオ、つまり、修辞、あるいは詩との融合(コラヴォレーショ
ン)の実験、ということでした。ご案内の通り、ヴィヴァルディは『四季』の楽譜に
自ら創作した14行詩(ソネット(を書き込んでいて、音楽が詩の内容に沿って(ある
いはその逆でもいいのですが)進むように工夫したわけです。この試みは、当時にお
いても大成功を収めました。

バッハの『インヴェンツィオン』は、ヴィヴァルディほど派手な試みではありません。
しかし、これはやはり、バッハによる「チェンバロ詩集」であると、私には思えるの
です。全体は二つの声部のために書かれています。つまり、二つの声部しか出てこな
いのです。鍵盤曲としては最低限の声部数、これ以上ない質素な編成です。その2声
部を使って、バッハは、実に豊かな修辞を聴かせてくれます。なんといっても、そこ
に盛られた詩情に、私は感嘆せざるを得ません。それを、皆さんにも是非味わってい
ただきたいと思います。
 
(続く) 
 
(全文・武久源造 写真,改行・optsuzaki)