笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2012-02-29

高橋悠治・波多野睦美〜ことばを贈る から一年

高橋悠治・波多野睦美〜ことばを贈る 福山公演から、1年が経った。
少しその後のことを 今日は振り返りたい。

お二人のアルバム「猫の歌」も昨年7月にリリースされた。

「民衆に訴える」に始まるアルバムは、さまざまな時代と作品
それぞれが無数に支えあう木組のようにも、感じられる。

2010/11/29~12/1に、アルバムはレコーディングされ、
それは同公演より約3ヶ月前のこと、震災をまたいでの
リリースだった。

ライナーにも書かれている世の中が「大きく変わった」間に、
「大きく変わった」音楽のはじめの一歩が、そこにある。


収録されている「18の春のすてきな未亡人」「オンリー」
「長谷川四郎の猫の歌」は、神戸、福山の二公演でも演奏された曲。

「18の春のすてきな未亡人」での、ふたを閉じたピアノを打楽器として
演奏する音。手の厚い悠治さんの音は、芯のある大きな音だった。

「これはスネアだね。」といいながら繰り出すそれは、音量というより
質的に大きな音で、耳がピーンと引っ張られてしまうほどに強力な音色と
リズムだった。

ケージに抱いていた、意匠が前に出るようなシニカルさは感じられず、
かといって、フラメンコギターのタッピングのような興に任せたものでも、
もちろんない。

「オンリー」は、CDと驚くほど印象が同じである。
会場入り後ほどなく、ホールの響きを確かめるように無人の観客席で、
指を鳴らしながら歌ったそれよりは、かしこまっているけれども。

全体にゆっくりとしたテンポで歌われた「長谷川四郎の猫の歌」の
変容は興味深い。

~いびきたてて猫寝てた~ と、口元に可笑しみをたたえた味付けや、
「あさのまがりかどのうた」でのことばひとつひとつへのニュアンスの
加え方など、歌い手が曲に寄り添った「とき」が鮮明に見てとれる。

CDを聴くことで、逆にコンサートまでの期間の熟成が楽しめるなんて、
なんと幸せなことだろうか。

けれども音楽は、さらに遠くへと運ばれていく。

「今日は最初から弾こうかな。」と悠治さん、どうやら神戸ではいきなり
途中から始まったらしい「猫の歌」。
「なんでそんなことするんですかっ。」といいながら、波多野さんも
笑っていた。よくご存知のコトか、とも思いますが。



ところで、いつか、お二人でレコーディングして欲しい曲。

アンコールで演奏された、バルトーク:「20のハンガリー民謡集」 Sz.92内の
セーケイの緩やかな踊り(第2集 踊りの歌)/セーケイの速い踊り
(第2集 踊りの歌)。

この曲は、以前からも波多野さんはコンサートで歌っておられたことが、
後でわかった。(ピアノも、違うお二人との競演で)

リハーサルでまだウォーミングアップ中の抑えられた声が、
かえって、不安に彩られた「さびしいままのこころ」を心に刻む。
(波多野さんはきっと苦笑されるだろうが...)

2012-02-28

鈴木秀美ガット・サロン・イン尾道 / ジャズ大衆舎 on web #9

鈴木秀美ガット・サロン・イン尾道

創造的な音楽家は、自ら築いてきた場所でそれがいかに尊いものであろうと、そして自らの安寧を保証するものであろうと、そこに安住するのを潔しとしないものだ。

そういう注目すべき音楽家が、「古楽」の世界にも何人かいる。ジャンルとしての「古楽」を「クラシック」と一線をわかつものとするか否かは、意見が分かれよう。だが、「古楽」的視点をもって音楽史を眺めるならば、まだまだ未開拓の分野はありそうだし、誰もが知っている名曲を、いかに意匠を凝らし新しく聴かせようと呻吟するより、誰も手をつけないことに果敢に挑んでいくという態度の方が、気持ちいいし、何よりも新しい何かを発見する喜びがある。

鈴木秀美は、間違いなくそういうタイプの音楽家だと思う。



バッハの「無伴奏チェロ組曲」と言えば、カザルスの歴史的録音を凌駕するのは、鈴木秀美の2種類の録音をおいて他にあるまい。録音にとどまらず、楽譜の綿密な校訂・出版までやってのけ、この曲集の演奏史において巨大な足跡を遺している。ジャズ大衆舎が、2008年に催した2回のリサイタルを聴きに来て下さった方もいらっしゃるだろうが、その後の演奏会のアンケートでも、鈴木秀美のバッハをもう一度聴きたいという声をいくつも聞く。また、鈴木秀美はバッハ・コレギウム・ジャパンの通奏低音の要として、20年以上にわたって、カンタータや受難曲をはじめとする教会音楽を演奏し続けてきた。

これだけでも、おそらく鈴木秀美の楽界での地位は立派なものだが、彼はそこにとどまろうとしない。オリジナル楽器による、オーケストラ・リベラ・クラシカを組織し、ハイドンの初期・中期の交響曲を中心とした、だれも手を染めなかったレパートリーを開拓し、自ら指揮をして紹介したり、リベラ・クラシカ等の名手たちとアンサンブルを組んで、ボッケリーニやハイドン、モーツァルト、あるいはベートーヴェン、シューベルトの多様な室内楽を演奏する。さらには、モダン・オーケストラを指揮して、バロックや古典の名曲に新しい息吹を吹き込む…。

いったい一人の音楽家にどれだけのことが出来るのか、それに挑んでいるかのようだ。もちろん本人の才能や人格、経験、知識…、あらゆるものを動員して、一つ一つの演奏会が成立しているのだろうが、一方で、社会的・経済的な制約や圧力も相当なものであろう。

何が出来るか、どこまで出来るか、一回一回が勝負なのだろう。



尾道で、鈴木秀美のアンサンブルを聴くことが出来るのは、大きな喜びだ。プログラムは、モーツァルトのクィンテット2曲に、滅多に聴くことの出来ないボッケリーニのクィンテットが挟まれている、というのも嬉しい。また、私たちに馴染みの深い、若松夏美のヴァイオリンが聴けるのも、大きな楽しみだ。

ともあれ、4月尾道で、音楽を生きる者たちの道程に触れてみようではないか。



 (全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)

2012-02-27

鈴木秀美のガット・サロンin尾道 のご案内



 

クリックすると拡大します



オリジナル楽器で聴く珠玉の室内楽
鈴木秀美のガット・サロンin尾道 

2012年4月15日(日)
開場15:30 開演16:00

しまなみ交流館

一般:3,500円 学生:2,000円 (当日は500円up)

全席自由

出演者 ヴァイオリン/若松夏美、竹嶋祐子
ヴィオラ/成田寛、小峰航一
チェロ/鈴木秀美 

曲目

弦楽五重奏曲第4番ト短調 K.516(モーツァルト)
弦楽五重奏曲作品60-5 ト長調(ボッケリーニ) 
弦楽五重奏曲第6番変ホ長調 K.614(モーツァルト) 

主催/NPO法人おのみちアート・コミュニケーション
後援/尾道市、尾道市教育委員会、尾道市文化協会


2012-02-26

ミュージカル「カブニのかくれんぼ まぁだだよー」練習におじゃましました #2



今日も、今頃練習中のはず。

お店が手薄で出れませんが、みんな頑張って!

2012-02-25

ミュージカル「カブニのかくれんぼ まぁだだよー」練習におじゃましました #1

仕事の合間に30分だけ、お邪魔してきました。



わけあいあいとした中にも、本番近くの緊張感が流れています。



がんばれ がんばれ カブトガニ♪

2012-02-24

よく会いますね



昨日のこと。耳鼻科へ、朝、出かける。

待合で、お顔がわかるようなわからない紳士と
目が合い、軽く会釈。

診察室から出てきた同級生の奥さんと、懇意に
話をされているのを見て、へー、彼女もいろんな人を
知ってるんだな、と感心する。

雨上がりの上天気。朝歩いていなかったので、
てくてくと、学校に校正を取りに行く。

印刷屋さんに届けて帰る途中、前から通りたかった
路地裏を思いつきで歩いてみた。

肩幅よりは広いものの、人一人やっと通るような道。
道幅と同じだけの溝が、並んで流れている。

そこに、今朝の紳士が向こうからやってきた。
なんという偶然なのだろう。

今度は、軽く会釈され、

「こんにちは、よくお会いしますなぁ...。
この道を知っている方は、ほとんどいないでしょう。」

溝蓋の上で、ニコリ笑っておられる。

きっと、僕が誰なのか、ご存知なのだろう。
でも、こちらはヤッパリわからなかった...。

今度、顔の広い奥さんに、教えてもらおうか。

2012-02-23

学校新聞のカンマと句点

校正が仕上がって、一服、お母さん友達と、
「,カンマ」「、句点」のお話になった。

昨年は、 「,」で統一するよう、校正で指摘された。
横書きでは、そう打つように、ということだったのだが...。

例文 :   1,2年生は,可愛い。

こう打って違和感があるのは、僕だけでもなかろう。

持ち込んだ印刷屋さんに伺ってみても、
「そうですかねぇ...」 と、訝しがられた。

明治以降、こうなっていく理由はあるらしいが、
すべての場所で統一されているわけでも、ないらしい。

英文やローマ字入力からすると、打つスピードの上で
優位性は確かにあるだろう。(僕は、少数派のかな入力である。)
が、これはタイプライターの論理で、表現とは別のこと。

いずれにしても、今年の「はばたき」も句点で統一している。

学校新聞は公文書ではない、というほどの大げさな抵抗ではない。

少なくとも僕たちが作っているのは教科書ではなく、
お便りなのだ、と思っている。

2012-02-22

文化広報部・今年度最後の部会でした

お昼から、みんなで校正。
ああ、ミスってまだまだあるもんですね(^^;)

でも、いよいよ終わろうとしています。

部会でもお話ししたんですが、今年一年、僕のわがままに
おつきあいいただいて、ありがとうございました。

はい、来年はもっとワガママっす(笑)。

2012-02-21

はばたき第89号・製作終了

詰みました。もう、止めないと。

どこまでやっても、終わるわけではないから。

入れたいものもあったけど、またの機会に。
締め切りというものがあるのは、実はありがたい。

印刷屋さんには、昨日持っていってます。
原稿待ちは見切り発車して、後から追加や差し替えにしました。

手直しはあるかもしれませんが、
きっと大直しはないでしょう。

校正をみんなで明日、最後の部会で。


2012-02-20

謹告・偵察される同業者様へ



お店に来られる皆様の圧倒的多数は、お客さんだ。

商品を用意してくれるメーカーさんや問屋さんも、
同じように大事な存在。

が、なぜか冬のこの時期になると、同業者としか思えない
言動の不思議な方が、しばしば来店する。

近隣にチェーン店が開店するごとに、必ずやってきた。

あるときは、注文まで出して取りに来られなかった
念入りな方もいる。

そんな皆さんに、お願いがある。

どんな情報を仕入れに来られているのかは、計りかねるが、
どうかお互いの時間と信頼は、大事にしていただきたい。

意味のない猿芝居を打つ暇があるのなら、
お互いに名刺をきちんと出して、実のある話をしようではないか。

2012-02-19

ただ自分のために

お茶の回数が増える 

散歩の長さは変わらない


無心にキーを打ち マウスを繰る 

その時計 早回しなのか


つくりたいものを つくりたいから つくれば

ひとまず ガス欠は まぬがれる


2012-02-18

評議員会も終わる

10時から、PTA評議員会でした。

インフルエンザで欠席者が出たり、お仕事の都合があったり、
皆さん、それぞれに慌しいです。

事業報告を聞いて、ひとつひとつがだいぶイメージできるよう
にはなりました。
 
あ、今年はカメラは忘れませんでしたが(笑)、
少し終わりのあいさつが、簡単すぎたかな。


2012-02-17

プロフィール考 / ジャズ大衆舎 on web #8

プロフィール考

クラシックの音楽家の紹介文-プロフィール-というのは、だいたいにおいてつまらない。○○音楽大学を主席で卒業、△△氏に師事、××コンクールで優勝、□□と共演…、てな具合で、その音楽家がいかに優れた才能を持っていて素晴らしい音楽をやるか、ということを権威主義的に羅列するだけ、というのが多い。だいたい、どこの大学を出ようとコンクールでどうであろうと、そんなことに興味のない筆者のような人間にとっては、どうでもいいことだ。

だが、そういうことを書かなければならない事情があるということも、(具体的にどういうことであるかはここでは措くとして、)まるで理解しないわけではない。だから、自分が催す演奏会のチラシにも、学歴、コンクール歴等も掲載するわけだが…。

しかし、それだけに終わるとすれば、いかにもさびしい。

その人の音楽に真面目に接しようとする人にとっては、その人が何をしようとしているか、ということにこそ興味を抱くのではないか。また、逆にそのことが示し得ない音楽家であるならば、私たちは耳を傾ける価値は無いのではないか。

演奏会は、音楽家の表現の場であることはもちろんだが、催す者にとっても表現の場である。どうして、その音楽家の表現の場を催そうとしたのか、聴きに来て下さったお客さんに伝わらなければならない。必ずしも人数が多いわけではないが、当舎の演奏会なら必ず聴きに行く、とおっしゃって下さる方がいらっしゃる。そうした信頼は、やはり、じっくりと聴くに値する音楽を継続的に提供することで築くことが出来るものだろう。プロフィールは、そのための手引きであって欲しい。



何をやるか、という視点から言うと、いささか焦点を外すことになるが、プロフィールに書けないプロフィールというのもあってもいいだろう。

あるミュージシャンから聞いた話。

観光ビザで渡米し、ニューヨークのレストランでアルバイトをしながら、夜は修行を兼ねてジャズの店で演奏していたが、就労ビザを持っていないことが当局に知れて、強制送還された…。彼は、もちろん、学校で音楽の教育なんか受けていない。月刊誌「ジャズライフ」の終わりの方に掲載されている、アドリブの楽譜なんかで、ジャズを勉強したと語っていた。

こういう音楽家もいるんだよねえ。



 (全文・主催者 写真,html-edit・optsuzaki)

2012-02-16

熱心な読者ならOK



散髪で重い髪もすっきり。昼から帰って、インタビューの
最終ページを盛ってみました。

実際の文章はまだまだ推敲がいるのですが、
量的に足りなかったりすると、これから新しい記事を足さないと
いけないわけですから、この時期、ちょっとそれは(笑)。

なんとか体裁よくまとめられそうなボリュームになったので、
一安心。

P会長のコメントを入れてもらう場所を確保して、
サンプルを届けに行ったのですが、仕事場は不在。

ご自宅が、買い物に行く方面だったので、届けに自転車で。

途中、ホームセンターに寄って、金魚のえさを買おうと、
お店の駐輪場に停めて入ったのですが、そのとき、まあ原稿は
いいか、と思いカゴに置いていきました。

んで、えさを買って、出てみると。    ...ない。

ももっ子カードのファイルに挟んでいたのですが、
ファイルごとない。

しかし、なんでも持って帰る人がいるんですねぇ。
「はばたき」の熱心な読者の暴走なら、まあ、こらえますか。

隣の自転車も、いなくなっていました。
(この自転車、食料品をいっぱい積んだまま停めてあった。
見るからに怪しいのだけれど。)

仕方がないので、店まで帰って、再出力して会長宅のポストへ
入れて帰りましたとさ。

今日は朝歩けなかったので、運動にはちょうどよかったのかも。

2012-02-15

カブニの仲間 第4回公演 ミュージカル「カブニのかくれんぼ まぁだだよー」ご協賛ありがとうございました



プログラム作成の都合上、協賛をお願いにあがる最終日となりました。

快く協賛いただいた皆様、本当にありがとうございました。

僭越ながら、本ブログからも、感謝の意を表させていただきます。 


2012-02-14

「文字起こし」にはやっぱり

会議やインタビューの録音から、テキストを打ち出したりする作業を
「文字起こし」といいます。

いろいろやってみましたが、やっぱりiTunesで音声を再生しながら
同じパソコンでワープロを打つというのが、繰り返す操作が直感的で、
速いようです。

先日から、校長先生と児童会長さんの対談を文字起こししているのですが、
12分くらいなものなので、順番も編集しながらコツコツやっています。

録音していたときに、撮影もしていたので、聞き逃していた部分も
ありました。

しっとりとした話がなんとも良くて、先生の想いが
しっかり伝わればいいなぁ、と手を休めたり、また打ったり。

こういう雰囲気は、音声から直に書き出すソフト(それはそれで凄いけど)
では、きっと拾い難いでしょうね。

2010年のふれあい音楽会にて

2012-02-13

dootoで逢おう!/ ジャズ大衆舎 on web #7

dootoで逢おう!


その店は、美術館や文学館にほど近い、静かな住宅街にある。ジャズ大衆舎が演奏会の本拠地としている、延広教会も近くにある。ジャズ喫茶といえば、だいたい飲み屋街にあって夕方に開ける店が多いが、この店は昼間から開いている。

コンクリート打ちっ放しの外観は洒落ているが、たいていの人はそれと知らず通り過ぎていく。いかにもひそやかに、そっと、ある。

楽器を嗜むわけでない筆者のようなファンは、レコード・CDで音楽に親しんできた。それに飽きたらずライヴを催してきたわけだが、それでも日常はレコード・CDで音楽を真面目に聴く。かつては毎日でもライヴに接していたいと思っていたが、いまはそうは思わない。ときどき、ほんとうに価値のあるものだけに接したい、そしてその機会を大切にしたい、そう思うのだ。

おそらく同じような気持ちをもった、ファンが、その数は多くはないが、この店にやって来る。古楽のライヴでジャズ大衆舎を贔屓にして下さるTさんも、この店の常連だ。この人も真面目にレコードを聴いてきた方だ。我が隣人よ!

オーディオのことは詳しくないので、店の装置については云々できない。でも、すばらしくいい音だ。暖かみがあって力強く雄弁に語りかける音だ。広くもなければ狭くもない、つまりちょうどいい広さの店内に、冬場は石油ストーヴが焚かれている。その深く赤い炎の色に、その音がいかにも似つかわしい。

レコードとライヴはまったく別物だ。ライヴは、その場でリアルタイムで経験するもの、レコードは出来上がった作品だ。だから、意図された物語を内包する。その点、むしろ小説に近い。

最近、バルザックの『谷間のゆり』を読んだ。活字の小さい岩波文庫で500ページ近くもある。19世紀前半フランスの純愛小説の古典だ。いかにも、自分の日常からは遠い。だから、いつか読まねばと思いながら、書棚に放っておいた。しかし読み終えたときの充足感はひとしおのものだった。並行して、ミヒャエル・ラドレスクというオルガニストの「バッハ:ドイツ・オルガン・ミサ」のCDを聴いた。響きからして決して大型ではないオルガンの音は、美しいがむしろ地味である。演奏にも派手さはなく悠揚迫らぬテンポで進められていく。ラドレスクの演奏で1時間50分にも及ぶこの曲集を、バッハが全曲通して演奏されることを意図したのかはわからない。しかし、そうされるべき何かを胞の奥で感じていた。その感覚は、勝手な思い込みかもしれないが、バルザックを読み終えたときと、どこか似通っていた。

dootoのマスター山本さんはとても親切な方だ。最初に訪ねたときに、フリージャズが好きだ、と言ったせいか、私が行くと、その手のをよくかけてくれた。富樫雅彦や菊池雅章の実験的な音楽、アート・アンサンブル・オブ・シカゴの珍しいレコード…。

でも、私は、この店では、いままでに聴くことのなかった古典に接することが出来るのが、大きな喜びだった。それは、知らなかった短編小説を読むのに似ている。

ベニー・ゴルソン(テナーサックス)と言えば、ジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」での情動的な演奏が印象に残っていたが、意外にも優美で、どこかレスター・ヤングを感じさせた。ハードバップのトランペッターと言えばリー・モーガンが最高だと思っていたが、ドナルド・バードのトッポさも気持ちよかった。とりわけ、ジャッキー・マクリーンと組んだときのノリの良さは最高。トランペットというよりフリューゲルホーンを主とする、ケニー・ホィーラーが好きだと言ったら、ジョン・テイラーというピアニストとやっているのを紹介してくれた。ぴりりとした緊張感と不思議な親和感がいい。そういえば、デヴィッド・シルヴィアンの「ゴーン・トゥ・アース」というアルバムで、シルヴィアンがジョン・テイラーの伴奏で歌い、ホィーラーがオブリガートのようにつけている曲を発見した。短いが絶品。こんどマスターに聴いてもらおう。コルトレーンとセシル・テイラーが共演している1957年の録音は、後年の二人の大爆発を思うと、たいへんスリリングだ。知らないとただの凡作かな…。ビッグバンドものでは、カウント・ベイシーを聴かせてくれたが、これはどうもピンと来ない。

でも、超名盤、たとえば、「クール・ストラッティン」とか「サムシン・エルス」とかは、リクエストしない限りかけてくれない。マスターはたぶん照れくさいのだろう。ジョニー・グリフィンの「ブロウイン・セッション」は持っていない、と言われていた。二流ジャズの最高峰だと思うのだが…。

Genzo in Jazz

武久源造とも何度か行った。武久源造もジャズに詳しい。デレック・ベイリーやエヴァン・パーカーといった、アヴァンギャルドの話で盛り上がりつつも、リクエストするのは、渋い。ピアノでは、ハンプトン・ホーズとビル・エヴァンス。ハンプトン・ホーズは、チャーリー・ミンガスと組んだトリオ、エヴァンスでは、トニー・ベネット(ヴォーカル)とやった「トゥゲザー・アゲイン」。どちらも、私は存在さえ知らなかった。エヴァンスの「ピース・ピース」を聴きながら、ショパンの「舟歌」と同じ手法だ、と解説してくれた。それから、ジャンゴ・ラインハルト。マイルス・デイヴィスは、初期の「クールの誕生」!

さて、それでは、dootoでお逢いしましょう。


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(全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)

2012-02-12

true colors

無理やり、似合わない色を 組み合わせて着る。

いい色ですね、とほめられるのは、たいていそうした朝。


2012-02-11

POP張り替えてみました


先日、いちばん表の掲示板を張り替えてみました。

へいぜい北川景子さんとか、小栗旬君とか、カッコのいいポスターが
ある場所ですが、今回はうちのカックいいモデルも、ちょこっと登場しています。

ポスターばかりの組み合わせでは、のったり面白みがないので、
この前いただいた手製コースターも、使ってみました。

手作りのものは、あったかい感じが出ていいですね。

2012-02-10

去年の今頃

昨年の2月に比べたら、お店はずっと忙しい感じです。

震災の前でしたが、それでも、いったいどうなるんだろうというほど
ご来店が少なかったなぁ。正直、よくがんばりきったなと...。

お店あっての僕ですから。

諸々、同時進行で進んでいるけど、まだどれも終わらない
もどかしさ。ここらが我慢のしどころっす。

インフルエンザも211万人を超えたそうですが、
気をつけて、早めに休んでます。

ともかく時間のロスだけはかわしたいものです。

2012-02-09

今年度最後の三役会でした

4時から、来週の評議員会へ向けた、最後のPTA三役会でした。

改めて思ったのは、役員同士がへいぜいから密な話をしていないと
会員全体に伝わるものがズレてくるなぁ、ということです。

今年は、少し斜に構えてしまった自分に大きな責任があります。

また、あるアンケートの回答を見せていただくと、全体での話し合いに
もっと工夫がいるのかな、と感じました。

どうやったら、よりいい場が持てるかは、宿題にさせてください。


2012-02-08

なんの標準レンズ



もう、フィルムの時代に語りつくされたことだが、
最近実感していることが、「標準レンズ」はどう標準か、ということ。

道具として、広角・望遠に偏らない中庸の焦点を
そう呼んでいるのは、単なるナラワシなんだろう。


宇宙を撮るのなら、どんな望遠鏡だって広角レンズじゃないか。
海を撮るのだったら、超広角レンズは標準レンズかもしれない。


この前、35ミリフィルム一眼に135ミリの単焦点を
つけている人と話した。

「寄ったり離れたりして、そのとき撮れるものを撮る」のだそうだ。
その画角が好みとか、必要だ、とかいうことではなくて、
「それ1本しか持ってないから、そうする」のだ、とも。

つい驚いている自分は、頭が固くなっていると後で反省した。

2012-02-07

わざわざ立ち話



去年の文化広報部の部長さんと、店の表で立ち話。

(ゴメンネ、寒いのに...)

いつも、煮詰まってくると現れる、菩薩のようなお方である。


「原稿締め切りまでに、もう二回は落ち込む予定(笑)」と、
手を合わせておいた。



2012-02-06

となりのコマ

帰る頃、雨になった。明日は歩けないな。

昔行った、釣りのことが忘れられないという話を聞いて、
ああそれは写真をとったはず、と思い出す。

懐かしいフィルムを探していたら、あったあった。
プリント持ってんのかな。でも、喜んでもらえるといいなあ。

スキャンしていて、もうそんなに経ったのか...、としみじみ。

同じフィルムに残っているほかの写真も、つい見入る。

少し雨足が強くなった。

2012-02-05

その一瞬まで

「こんにちは」  「ごめんください!」

そこにある、静かな笑顔...。

お店のドアが開く瞬間まで、今日どなたがいらっしゃるのか
私どもにも想像できないものです。

~ 今度 訪ねてみようカナ ~

そんな暖かい気持ちで、ご来店まで見守られている店と私ども。
...じんわりと嬉しいものですね。 そして、今日も。

「いらっしゃいませ!」  「こんにちは」


8年前頃の様子。間違い探しみたい?(;)

2012-02-04

まいて節分などは

昨日のことになってしまったが、今年も鬼が出るぞ、という話を
登校前の娘たちに、言って聞かせた。

サンタクロースがなんで来るのかも、ロクロクわかっていないのに、
鬼の事情については、ほぼナメきっているようす。

下の娘にとって、シラをきりトボける父親なんぞは、
枕草子でいう「すさまじきもの」、らしい。


「で、今年はいつ出るん。なんでとーさんは見たことないん。」

「去年は、山の方に逃げていくのを帰り際に見かけたけどな...。」

「ふーん...。後で、苦しむでぇ~」


だいたい誰から習ったんな、その捨てゼリフ。


2012-02-03

演奏会を終えて ~桐山建志 武久源造


演奏会は、三曲演奏される予定のバッハのソナタの中から、一番地味な印象を受ける第2番に始まり、第1番がそれに続いた。桐山建志と武久源造の名人芸によって、刻々と調和と対立が組織されていく、その立体感は見事という他なかった。桐山のヴァイオリンは、技術・音色とも申し分なく、安定した響きで、私たちを魅了した。武久は、前半を通してジルバーマン・フォルテピアノを弾いたが、テンポの速い楽章での活力ある打弦音と強弱効果、緩除楽章の夢幻的で奥行きのある響きの効果、などで第1番・第2番でこの楽器を選んだ理由がわかるような気がした。


しかし、この楽器の音色を単純に「美しい」と言い切ってしまうのは、非情に微妙な点において、抵抗を感じてしまう。なぜだろう。


統一感のある澄んだ響き、そして強弱表現を求めるならば、むしろ現代のピアノの音の方がずっと「美しい」ものであろう。それに比べて、ジルバーマン・フォルテピアノは、聴きようによっては、玩具のようにガチャガチャ響くし、プリペアードピアノのように気紛れにも感じられる。(それから、独特の地方的な?訛りを感じさせる打弦音そのものも好き嫌いの好みが分かれるかもしれない。)

この不確定でどこかノイジーな楽器の「美質」はどこにあるのだろうか。端的に言って、現代のピアノになくて、ジルバーマン・フォルテピアノにある機能は、多彩な音色を出す機能だと言える。具体的には、一つは、レジスター操作によって、薄い木片が弦に少しだけ触れることによって、独特のノイズを発する機能である。また、もう一つは、平行に張られた2本の弦を、ハンマーで両方いっぺんに叩いたり、1本だけ叩いたりする、切り換えの機能である。これによって、音の強度や音量を選ぶことが出来るだけでなく、1本だけ叩く場合には隣に張られた弦が豊かな共鳴作用をおこすというのだ。

これらの機能の発想は、アジアやアフリカの民族楽器に通じるものがある。前者のノイズ機能は、たとえば三味線の「さわり」やアフリカの親指ピアノの胴体に付けられた瓶の王冠と共通するものであり、後者の共鳴機能でいうと、シタール、サロッド、サーランギーといったインドの古典楽器の、胴体の下に張られたたくさんの共鳴弦が連想される。これらノイズ、倍音、共鳴音への嗜好は、アジア・アフリカに独特なものであったのではなく、人類の普遍的美意識であったと思われる。ジルバーマン・フォルテピアノをみていると、ヨーロッパでも、バッハの時代にはそれを機能化するほどの美意識が、はっきりと存在していたということが出来るだろう。近代化、合理化、制度化の中で、そういった美意識がそぎ落とされていったのだ。その結果が現代のピアノというものに行き着くのであろう。

さて、ジルバーマン・ピアノの二つの機能は、2×2=4通りの音色を導くということになるのだろうが、聴いている限りはそんな単純なものではない。楽器の音域によってその効果の程度が微妙に変わってくるように思えるし、何よりも打弦の強弱にとってもかなり変化するように聞こえる。それは、演奏者の鋭敏な耳と指の感覚で、微妙な色合いを調整し得るものであろうが、いくばくかは、偶然的な作用も孕んでいるように思われる。結果的に、その音色は漠然として耳にすると、どこか曖昧で模糊とした印象を受けるのではあるまいか。だからその美質を味わうには、アジア・アフリカ的な、あるいは非近代的な感性に立ち返る必要があるように思う。

そういった多彩な、あるいは予測不能な音色変化に対して、統一感を与えていたのは、むしろヴァイオリンの方かもしれない。



バッハのソナタの後には、やはりバッハだが、武久源造の編曲による有名曲が2曲演奏された。ヴァイオリン独奏による「トッカータとフーガ」とフォルテピアノ独奏による「シャコンヌ」だ。前者はもともオルガン曲だが、武久によると原曲はヴァイオリン独奏曲でありその復元を試みたということである。一方後者は、ヴァイオリン独奏曲を鍵盤用に翻訳したものである。ということは、音数でいうと前者は「大→小」、後者は「小→大」という全く反対のベクトルを表現することになる。少なからぬ聴き手が原曲をご存じであったろうから、たいへん楽しめたと思う。

「トッカータとフーガ」は、オリジナルの復元を試みたというが、それにしては、とんでもない難曲と言わねばならない。それは、6曲からなる「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の中のどれよりも演奏困難であるに違いない。オルガン曲をヴァイオリンに遷すのだから印象はずいぶん違うが、武久の編曲は、オルガン曲の複雑なハーモニーやポリフォニーを、どれだけヴァイオリン一挺に盛り込むかというところに主眼が置かれているように感じた。それにしても、桐山の演奏は、この難曲を敢然と制覇し見事に弾ききった。それは素晴らしい、というよりもの凄い力量という他ない。

一方「シャコンヌ」をフォルテピアノで演奏する武久も素晴らしい気迫だった。前日のリハーサルで、桐山建志は「シャコンヌ」の演奏はその舞曲の性格からして一般に演奏のテンポが遅すぎる旨のことを、しきりに語っていた。その会話での影響があったのかどうかはわからないが、武久の演奏は急きたてるようなものすごい速さだった。手元の時計を見ていたらなんと9分20秒で弾ききってしまったのだ! それでいて、中間部での弦の共鳴効果を巧みに用いた夢幻的な響きは、ことのほか印象に残った。




休憩後の第二部では、武久源造は、自身が持ってきたツェル・モデルのペダルチェンバロを弾いた。私たちが持っているカークマンモデルも足鍵盤つきの楽器であるが、この楽器は足鍵盤で操作するチェンバロ本体が、手鍵盤のそれから独立したもので、まったく武久源造の他に誰が演奏するのか、と思われるほど独特のものだ。

最初に、武久の独奏で、ブクステフーデの「プレルーディウム」が弾かれた。チェンバロの多彩な音色を楽しんで欲しい、との演奏者の言葉があったが、確かに多彩な色合いを次々に楽しむ面白さはあるが、フォルテピアノよりどこか落ち着いた印象があった。チェンバロの音色がフォルテピアノほどタッチによる音の変化が無いからであろうか。


続いて、ヴァイオリンが入って、ビーバーの「ロザリオのソナタ」から「受胎告知」が演奏された。桐山建志の艶やかで伸びやかなヴァイオリンの音色は素晴らしく、バッハとはまた違う美質を聴かせてくれた。また、足鍵盤による重低音の威力は凄まじく効果的であった。最後は、締めくくりにふさわしくバッハの「ソナタ第3番」で、飛翔する二人の名人芸を堪能した。

アンコールは、ビーバーの「描写ソナタ」。うぐいす、かっこう、かえる、猫などの動物の様子がヴァイオリンで巧みに描出され、大いに笑わせてくれた。と同時に、お客さんはバロック音楽の幅の広さも感じることが出来たのではないだろうか。


この二人の名人の演奏に、これだけの名曲を揃えたのだから、悪かろう筈はないのだが、しかし、二人が型どおりの名演をやってのけるのではなかった。あらゆる面で、表現することに意欲的であった。バッハのソナタをフォルテピアノで弾くということに象徴されるように、創造的な音楽家は、実験と成果を同時進行させるものだ。また同じプログラムで演奏しても、その方法・表現は、変化・深化しているに違いない。この日もまた、音楽を聴く喜びを、腹の底から感じたのだった。



最後にいつもながら、石塚牧師はじめ延広教会のみなさまに全面的にご協力をいただいたことに、心から感謝申し上げます。会場を提供して下さっただけでなく、昼食にカレーを用意していただき、教会員の方々と食したのも、得難い体験でした。加えて、お客さんとしてきて下さり、はては打ち上げまで…、まったくお世話になりっぱなしでした。


 (全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)

2012-02-02

はばたきつつも

仕事を選べばまだまだ現役なElement

まだまだ完成まで先は遠いなあ...(苦笑)。

使い慣れたソフトと、こんな折だから力技で慣らそうとするソフト。
いったりきたりしながら続く、誌面と自分のアップデートですね。

2012-02-01

持続する陶酔

桐山建志 武久源造の公演が、終わって数日が経つ。

ゆったりと心をそこに置いている間もなく 、
月末のあわただしい時間は過ぎる。

にもかかわらず、余韻ではなく、体験そのものへ
フラッシュバックする陶酔感。

これは、なんだろう。

古楽であるとか、誰の曲であるとか、
はたまた、何で演奏されたかということでなく。

目の前で繰り広げられたのは、何物にもよらない
ただただ「音楽そのもの」だった。

私なりに、いろいろなアーティストの演奏に触れてきたが、
これほど「音楽そのもの」を感じたことは、意外なほどない。




ジャズ大衆舎・主宰は、次回の予定を口にしなかった。

あるいは、数ある区切りのひとつなのかもしれないが、
何かの到達点を感じさせる場であったことを
集った私たちは、きっと忘れない。