横山幸雄 ショパンを弾く 第2回 2014.4.25 福山アップルツリー
「教養小説」という文学ジャンルがある。ひとりの青年が、さまざまな人や文化と出会って影響を受け考えたりしながら、自己形成を遂げていく過程を描いた小説をいう。トーマス=マンの『魔の山』、ロマン=ロランの『ジャン・クリストフ』等だ。わが国でいうと、漱石の『三四郎』、鴎外の『青年』、下村湖人の『次郎物語』、それから、村上春樹の『ノルウェーの森』、中沢啓治の漫画『はだしのゲン』もこのジャンルに入れていいだろう。
12回にわたる横山幸雄の『ショパン全曲演奏会』も、こうした教養小説的な様相を帯びている。
第2回のプログラムの、ピアニストによる解説の冒頭には、「ショパンが23歳から25歳までの若き日の作品。パリで社交界デビュー、サロンの寵児となった若き日のショパン。」とある。
作品16は、『コンチェルト第1番』の第3楽章を下敷きにして書いたようであり、作品19は、ボレロというより、むしろポロネーズのリズムを用いた明るい曲であった。ある種の新奇な印象は受けたが、内面的な深まりや表現の意欲を聴きとるには至らない。
総じてこの時期のショパンは、横山幸雄が強調した「華麗な」という形容語で括ることの出来る、社交会の寵児として得意の絶頂にある青年の姿だ。それを典型的に示したのが、超有名曲『華麗なる大円舞曲作品18』だ。
横山幸雄は、社交人士たちに媚び媚びのこの曲を、むしろ淡泊に演奏した。演奏するのがいかにも恥ずかしい曲ではある。あるいは、この時期の他のショパンの作品の中で、その価値を相対的に位置づけようとしたのか。
さて、この日の演奏会で、異彩を放ったというか、新しい問題提起をしたというべきは、最後に演奏された『スケルツォ第1番作品20』だった。
冒頭の高音部での不協和音は、それまでの社交界受けを狙った、どこか軽薄な路線を自己批判するかのように感じられると言ったら、言い過ぎかもしれないが、ごつごつしたテーマや闘争的な展開といい、それまでの表現の語法とは違う新しい何かを求めるショパンの姿がある。繰り返しが多いこと、派手でくどさを感じるコーダのあり方など、いささか強引なもっていきようであり、ショパンが新しい何かを得ることに成功したとは、まだ言い切れないが、何かにつんのめっていくような覇気はじゅうぶんに感じられた。また、同時期あるいはこれより少し後に書かれる『ポロネーズ第1番』や『バラード第1番』あたりに接続されていくような予感があった。この曲は4曲あるスケルツォの中ではもっとも演奏される機会の少ない曲だろう。一般的なリサイタルやCDなどで、他の名曲群の中に混じって演奏されると、どこか冴えない印象を受けるが、こうして、同時期の作品群と並べて演奏されると、この作品の特異性や若いショパンの意気込みが読み取れるようで、たいへん面白かった。