ステージには、3台のピアノが並んでいた。下手から、シュタイン(1820)、シュトライヒャー(1846)、そして現代のスタインウェイ、である。
尾道しまなみ交流館は残響が少なくしかも客席が広いので、いわゆる「古楽器」を聴くのに適したホールであるとは言い難い。おまけに、休日の午後でありながら、聴衆の数もまばらであった。私は、シュタインとシュトライヒャーの近くの席をとった。主催する方としては、お客さんが少ないのはつらいところだろうが、私としては、音の塩梅を想像しながら、席を選ぶことができたのはうれしかった。
前半は、シュタインを用いて、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ウェーバーの名曲が演奏され、後半は、シュトライヒャーによってメンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、ショパン、リストが演奏された。これが、普通のモダン・ピアノの演奏会なら、ピアノを習い始めた子どもたちを対象にしたような田舎プログラムという感じだろう。それなら私が聴きに行く理由はない。ところが、作曲者が生きていた時代にまさに演奏された楽器を用いることによって、少年の日に魅了された名曲の、正真の姿に歳月を経て再会するようで、言い知れぬ感動を覚えた。
演奏会の途中には、演奏者の上野真氏と、楽器のコレクターであり修復家である山本宣夫氏との対談があり、これもたいへん興味深いものであった。楽器にかかわる二人の愛情は並々ならぬものがあり、予定時間を超過しても語り尽くせないほどであった。
シュタイン・ピアノ(1820)の音は、現代のピアノとくらべて、明るく軽い。楽器の大きさは決して小さくはないが、木の箱全体が朗らかに鳴っているという感じだ。まさに、ベートーヴェンやシューベルトが生きていた時代と、国際都市ウィーンのむしろローカルな風情を感じさせてくれるものだった。私にとってなによりも嬉しかったのは、ベートーヴェンの「ソナタ第30番」が演奏されたことだ。後期のベートーヴェンのソナタでいうと、「29番」と「32番」は独特の重厚さや深沈とした趣がある。それに対して、「30番」と「31番」には不思議な明るさ、軽さ、そして、湧き上がるような飛翔感がある。シュタイン・ピアノの響きは、この曲を演奏するのに過不足ない豊かさを備えているように思えた。
このピアノには、四つのペダルが付いており、真ん中の2本はモデラート・ペダルという、ハンマーと弦の間に羅紗のようなものをはさみ音色を変化させる機能をもっている。上野も演奏の隠し味のように巧みにそれを用いていた。この時代のピアノは、強弱のみならず、音色の変化という、チェンバロが心を砕いてきた、美意識をまだ保っていたということなのだろう。
後半のシュトライヒャー・ピアノ(1846)は、ぐっと現代のピアノに近づいてきたという感じの音である。鍵盤の数は85と、現代の標準的な88に迫るほどになり、何よりも音量・量感がぐっと豊かになった。しかし、それに加えて何とも言えぬ、聴くものの心に馴染む親和性がある。楽器本体は木目の美しい落ち着いた色調で、譜面立てにはたいへん細やかなレリーフさえほどこされている。コンサートホールというより、書斎とか小さなサロンにさり気なく置かれているのがふさわしいという感じである。中期~後期のロマン派の名曲が演奏されたが、これらの曲がまさにこのピアノのために書かれたと「錯覚」しても何ら不思議がないように思われた。とりわけ、自身がシュトライヒャーのこの型のピアノを生涯愛奏したというブラームスの、「作品118」はたいへん滋味深いものであったし、ショパンの「マズルカ」や「子守唄」は、深い余情を残すものであった。
そして、最後にアンコールとして、現代のスタインウェイによって、リストの「メフィストワルツ」が演奏された。ピアニストの上野真は、どんな曲においてもその意図するところや情感を巧みに表出していたが、よっぽどの腕達者と見えて、リストにおけるテクニックの冴えは圧倒的であり、文句のつけようのない、スリリングな快演であった。しかし、私たちは直前まで、シュトライヒャーの慈しみ深い響きに慨嘆していたのである。スタインウェイの響きは、輝かしくて立派であるが、あまりにも音が大きすぎるし派手過ぎる、むしろやかましいと言ってもいいくらいだ。これは、演奏者の技量というよりも、楽器そのものの性格によるものに違いない。
スタインウェイの勝利の歴史は、世界史でいうなら帝国主義から現代にいたる過剰な資本主義の歴史に重なる。時代や社会が欲した音なのだろうが、シュトライヒャーからスタイウェイにいたるピアノの変遷が、この楽器の「発展」であったとは素直には言えないような気がしてならない。それほどまでに、現代ピアノが失ったものの大きさをしみじみと感じさせる演奏会であった。悔しいことに、こういった歴史的な楽器を聴く機会はきわめて少ない。私たちは、いつまで我慢してスタインウェイを聴かなければならないのだろうか。
(全文・主宰 写真,改行・石原健)