コンサートにいたる経緯(覚え書きとして)
2007年4月、私は、広島へ、高橋悠治と姜泰煥(カン・テーファン=韓国のサックス奏者)によるインプロヴィゼーションのコンサートを聴きに行った。終演後、楽屋を訪ねた私は、高橋悠治に、原民喜の『夏の花』の印象をピアノ独奏曲にして福山で演奏して欲しい、という旨のことを申し入れた。高橋悠治は、「まあ読んでみないとね」と言いながらも、私の依頼を前向きに受けとめてくれるような気配が感じられた。
その頃の私は、原民喜と『夏の花』に入れ込んでいた。友人を集めて、読書会をもったり、いきあたりばったりのフィールドワークしたりした。高橋悠治への依頼も、そうした原民喜と『夏の花』への傾倒から生まれたものだ。
福山に帰った私は、早速、アマゾンで、新潮文庫の『夏の花・心願の国』を高橋悠治の自宅に送って、依頼した趣旨のような文章を書いて、メールで送った。
数日経って、高橋悠治からメールが返って来た。それによると、コンサートの翌日、彼は、広島の書店で『夏の花』を読んだとのことであった。しかし、作曲については、「この作品に音楽を加える必然性を感じない」という理由で、断られてしまった。さらに消極的な理由として、林光が、原民喜のテキストに『原爆詩三景』を作曲していることを挙げていた。私は、なんとも残念な気持ちではあったが、文面にあらわれた高橋悠治の誠意ある態度は、断られたにせよ、じゅうぶんに納得し得るものだった。
2008年から翌2009年は、私の周囲では、ある種のブームといっていいほど、原民喜について、さまざまな催しがおこなわれ、私自身も企画・参加した。
その大きな契機となったのが、私が通うキリスト教会に竹原陽子さんという原民喜の研究者を見出したことだった。彼女は、在野でありながら、原民喜自身が『夏の花』を発表した『三田文学』にいくつもの論文を発表したり、原民喜の埋もれていた原稿を発見したり、原民喜についての講演やフィールドワークを企画したりと、素晴らしい仕事を積み上げていた。私は、教会で、彼女を講師にたてて、何度か読書会を催した。それから、彼女も監修に加わって計画中であった、ふくやま文学館での『原民喜展』の関連行事に、参加したり友人を紹介したりした。
『原民喜展』が始まった頃、私は、ここ数年の自分の展開をまとめて、高橋悠治に近況報告の手紙を出した。そしてその返信として、高橋悠治の手紙を受け取った。その中に、『心願の國』をテキストに合唱曲にし、2010年3月に東京混声合唱団の定期演奏会で初演する、ということが書かれていた。
『心願の國』は、原民喜の最後の作品である。しかも、初演される日は、福山での『原民喜展』の期間中であった。
私の申し入れがあって高橋悠治が原民喜のテキストに作曲したなどとは考えもしないし、福山での『原民喜展』期間中に合唱曲『心願の國』が初演されるというのも、偶然に過ぎないのだろう。しかし、そうではあっても、私はそこに何かの繋がりのようなものがあることを信じたかった。またそう信じることで、自分の小さな営みが、時を隔てて原民喜とも繋がっていると、感じていたかった。
音楽ファンを自認する私であったが、音楽を聴くために上京するというのは、自分の生活の中ではなかなか考えにくかった。それでも、そのときばかりは特別であった。
2010年3月、『心願の國』が初演される東京文化会館へ足を運んだ。
『心願の國』は、原民喜の小説の中でも特異な作品だ。死によって生が断絶され喪失するのではなく、それはひとつづきのものであり、死には絶望も恐怖もなく、光に吸い込まれるように美しい無に収れんされるような、そんな不思議な感覚がある。
高橋悠治の『心願の國』には、独奏ヴァイオリンのオブリガートが加わっていたが、それが生と死を媒介する通り道のように私には感じられた。なんと健気な、憧れにみちた、そしてつつましいヴァイオリンの飛翔であったか。
終演後、私は、高橋悠治に、配布されたプログラムにサインを求めた。彼は、サインに応じてくれたあと、私の顔を見ながら、にっこりと笑ってプログラムを差し出した。その笑顔は、子どもに何か大事なものをわけあたえる父親のような慈愛が感じられた。やはり、もう一度、私たちの街に高橋悠治を招きたい、と思った。
それからしばらくして、メールのやりとりで高橋悠治に福山での演奏を再度申し入れた。むろん『夏の花』を作曲・演奏して欲しいという要望は取り下げた。しかしながら、今度も彼は、すぐに私たちの要望を受け入れてくれなかった。
高橋悠治のエッセイが、散文でありながら読み手の想像(創造)を引き出そうとするようにしばしば詩的・暗示的な傾向を帯びるのは、ファンならばご存じであろう。メールのやりとりも同じで、そのなかで、ピアノ独奏でステージに立つことの抵抗を語った。たしかに、高橋悠治のエッセイに書かれたことを考えてみると、わかるような気がした。それでも、私たちスタッフ側では高橋悠治のピアノソロを期待する声が大きく、結局、彼の心変わりを待つということになって無期限の保留状態となってしまった。やはり駄目かな、とその時は思った。
そこへ、福山在住の声楽家、奥野純子さんが、私のところへ電話をかけてきて、神戸で高橋悠治と波多野睦美のコンサートがあるので、その形を福山でやってもらってはどうか、と進言してきた。奥野さんは波多野睦美の弟子で、二人のデュオも聴いたことがあるようだった。(ちなみに、奥野さんとは、1994年に催した姜泰煥のコンサートに彼女が聴きに来てくれて、知り合った。これも不思議な繋がりと言えなくもない…)なるほど、ではその線で再度頼んでみよう、ということにした。高橋悠治によると、神戸も当初はソロでということであったが、高橋悠治の提案で前半ソロ、後半波多野睦美を迎えてのデュオという形になったという。
そうして、なんとかコンサートを催せることになった。で、この覚え書きは円満に終わりかというと、ちょっと面白い話があるので、もうしばらく続けることにする。
さて、「コンサートの題名をどうしますか」と高橋悠治に尋ねたところ、逆に、私に考えてみろ、と返された。これは、光栄ある仕事であるが、同時にたいへんなプレッシャーであった。なぜなら、高橋悠治のコンサートに題名をつけるということは、私が高橋悠治の音楽をどう理解し、何を期待しているのか、を問われているように思われたからである。私は知恵をしぼって、いくつかの案を提示したのだが、思い入れが強すぎたのか、ことごとく却下されてしまった。
最終的に「ことばを贈る」となったのは、しびれを切らした高橋悠治の方からの提案であった。
悩んだ割には、あっさりした題名のような気がして、初めは肩すかしをくったように思われた。だが、実際にコンサートを聴きに来て下さった方々には、納得のゆくものではなかっただろうか。高橋悠治の音楽は、音楽がそれだけで生まれそれだけで成立するような類のものではないように思える。コンサートは、音楽が、文学、歴史、民族、等々の言葉を媒介として認識されるものとの交歓の場であるようだ。クルターグの曲には、意味をぎりぎりまで切り刻まれた、音響というに近い言葉もあった。そういえば、高橋悠治のエッセイに『言葉をもって音を断ち切れ』という象徴的な題名をもった本もあった。
前回のコンサートの感想といい、今回といい、恥じらいもせずに、目を見開いて自分の視界におさめられる精一杯の力で、高橋悠治をとらえようと頑張ってみた。でも、たぶん勘違いなのだろう、思い入れに過ぎないかもしれない。きっと悠治さんに尋ねてみると、「それは違っててね…」とていねいに説明してくれるだろう。(またその説明が難しくてわからなかったりする…)
それでも、時間の経過とともに、記憶が薄れていくのは自分としては耐え難いことのように思えた。それで書いてみた。
(全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)