笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2011-06-04

若松夏美頌


若松夏美頌

 ある演奏家が発する楽の音にその人の人格的なものを嗅ぎとろうという発想は、いささか大時代的に過ぎるかもしれない。「人格的」とまで高ぶって言わないまでも、発せられた音のかけらと、その人の人柄とか素振りとかたたずまいとか、そんなものとが応じ合っているのを、説明はつかないのだけれども、しっくり感じとることが出来たとき、私は嬉しくなる。

 モーツァルトの「ピアノ四重奏曲」のCDを聴きながら、私は若松夏美のヴァイオリンの音そのものに魅せられていた。もちろん、曲は素晴らしいのだが、とりわけヴァイオリンの妙技を際立たせるような音楽ではない。スタンリー・ホッホランド、成田寛、鈴木秀美の、いきいきとしたしかも構築感のある演奏はたいへん説得力がある。にもかかわらず、私は、ああこれは若松夏美の音だ、といくども感嘆するほかなかった。

 その音は、いかにも自然で力みが無い。力強く素直に歌うが、ロマン的な過剰さはどこにもない、颯爽としてあかるい、聖母の無垢な微笑みのようだ…、などと書いてみても、いったい何になろう。それは、若松夏美その人、そのもののように思えた

 気がついてみると、バロック・ヴァイオリンのイメージの典型として、いつのまにか、私は若松夏美のヴァイオリンを、享受していた。バッハ・コレギウム・ジャパンのコンサートマスターとして、鈴木秀美のアンサンブルのメンバーとして、そして、ソロで、一番接することの多かったヴァイオリニストは、若松夏美だった。

 若松夏美を招くのは4度目になる。
 鈴木秀美のアンサンブルで聴かせた、ベートーヴェンとシューベルトの気迫は素晴らしいものであった。バッハの「無伴奏ソナタとパルティータ」(全曲)の自然な音楽の構えは、古楽演奏が蓄積してきた、最前衛のバッハ像を示してくれたように思う。

 バッハの複雑に入り組んだポリフォニーの織物に目を眩ませながらも、私は、今度は、若松夏美に美しく伸びやかな歌を求めた。具体的には、コレッリのソナタである。これほど、彼女の美質を際立たせる音楽はないのではないか、と思った。
 本人に、その旨を伝え、一夜のコンサートを所望した。メンバーは、若松夏美が選び、プログラムは演奏者三人の合議で決めたとのことだ。
それにしても、なんと魅力的なメンバーでありプログラムだろう。
 コンサートが催されるころには、もう梅雨は明けているだろうか。


(全文・主催者 写真・optsuzaki)