その店は、美術館や文学館にほど近い、静かな住宅街にある。ジャズ大衆舎が演奏会の本拠地としている、延広教会も近くにある。ジャズ喫茶といえば、だいたい飲み屋街にあって夕方に開ける店が多いが、この店は昼間から開いている。
コンクリート打ちっ放しの外観は洒落ているが、たいていの人はそれと知らず通り過ぎていく。いかにもひそやかに、そっと、ある。
楽器を嗜むわけでない筆者のようなファンは、レコード・CDで音楽に親しんできた。それに飽きたらずライヴを催してきたわけだが、それでも日常はレコード・CDで音楽を真面目に聴く。かつては毎日でもライヴに接していたいと思っていたが、いまはそうは思わない。ときどき、ほんとうに価値のあるものだけに接したい、そしてその機会を大切にしたい、そう思うのだ。
おそらく同じような気持ちをもった、ファンが、その数は多くはないが、この店にやって来る。古楽のライヴでジャズ大衆舎を贔屓にして下さるTさんも、この店の常連だ。この人も真面目にレコードを聴いてきた方だ。我が隣人よ!
オーディオのことは詳しくないので、店の装置については云々できない。でも、すばらしくいい音だ。暖かみがあって力強く雄弁に語りかける音だ。広くもなければ狭くもない、つまりちょうどいい広さの店内に、冬場は石油ストーヴが焚かれている。その深く赤い炎の色に、その音がいかにも似つかわしい。
レコードとライヴはまったく別物だ。ライヴは、その場でリアルタイムで経験するもの、レコードは出来上がった作品だ。だから、意図された物語を内包する。その点、むしろ小説に近い。
最近、バルザックの『谷間のゆり』を読んだ。活字の小さい岩波文庫で500ページ近くもある。19世紀前半フランスの純愛小説の古典だ。いかにも、自分の日常からは遠い。だから、いつか読まねばと思いながら、書棚に放っておいた。しかし読み終えたときの充足感はひとしおのものだった。並行して、ミヒャエル・ラドレスクというオルガニストの「バッハ:ドイツ・オルガン・ミサ」のCDを聴いた。響きからして決して大型ではないオルガンの音は、美しいがむしろ地味である。演奏にも派手さはなく悠揚迫らぬテンポで進められていく。ラドレスクの演奏で1時間50分にも及ぶこの曲集を、バッハが全曲通して演奏されることを意図したのかはわからない。しかし、そうされるべき何かを胞の奥で感じていた。その感覚は、勝手な思い込みかもしれないが、バルザックを読み終えたときと、どこか似通っていた。
dootoのマスター山本さんはとても親切な方だ。最初に訪ねたときに、フリージャズが好きだ、と言ったせいか、私が行くと、その手のをよくかけてくれた。富樫雅彦や菊池雅章の実験的な音楽、アート・アンサンブル・オブ・シカゴの珍しいレコード…。
でも、私は、この店では、いままでに聴くことのなかった古典に接することが出来るのが、大きな喜びだった。それは、知らなかった短編小説を読むのに似ている。
ベニー・ゴルソン(テナーサックス)と言えば、ジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」での情動的な演奏が印象に残っていたが、意外にも優美で、どこかレスター・ヤングを感じさせた。ハードバップのトランペッターと言えばリー・モーガンが最高だと思っていたが、ドナルド・バードのトッポさも気持ちよかった。とりわけ、ジャッキー・マクリーンと組んだときのノリの良さは最高。トランペットというよりフリューゲルホーンを主とする、ケニー・ホィーラーが好きだと言ったら、ジョン・テイラーというピアニストとやっているのを紹介してくれた。ぴりりとした緊張感と不思議な親和感がいい。そういえば、デヴィッド・シルヴィアンの「ゴーン・トゥ・アース」というアルバムで、シルヴィアンがジョン・テイラーの伴奏で歌い、ホィーラーがオブリガートのようにつけている曲を発見した。短いが絶品。こんどマスターに聴いてもらおう。コルトレーンとセシル・テイラーが共演している1957年の録音は、後年の二人の大爆発を思うと、たいへんスリリングだ。知らないとただの凡作かな…。ビッグバンドものでは、カウント・ベイシーを聴かせてくれたが、これはどうもピンと来ない。
でも、超名盤、たとえば、「クール・ストラッティン」とか「サムシン・エルス」とかは、リクエストしない限りかけてくれない。マスターはたぶん照れくさいのだろう。ジョニー・グリフィンの「ブロウイン・セッション」は持っていない、と言われていた。二流ジャズの最高峰だと思うのだが…。
Genzo in Jazz |
武久源造とも何度か行った。武久源造もジャズに詳しい。デレック・ベイリーやエヴァン・パーカーといった、アヴァンギャルドの話で盛り上がりつつも、リクエストするのは、渋い。ピアノでは、ハンプトン・ホーズとビル・エヴァンス。ハンプトン・ホーズは、チャーリー・ミンガスと組んだトリオ、エヴァンスでは、トニー・ベネット(ヴォーカル)とやった「トゥゲザー・アゲイン」。どちらも、私は存在さえ知らなかった。エヴァンスの「ピース・ピース」を聴きながら、ショパンの「舟歌」と同じ手法だ、と解説してくれた。それから、ジャンゴ・ラインハルト。マイルス・デイヴィスは、初期の「クールの誕生」!
さて、それでは、dootoでお逢いしましょう。
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(全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)