笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2012-02-03

演奏会を終えて ~桐山建志 武久源造


演奏会は、三曲演奏される予定のバッハのソナタの中から、一番地味な印象を受ける第2番に始まり、第1番がそれに続いた。桐山建志と武久源造の名人芸によって、刻々と調和と対立が組織されていく、その立体感は見事という他なかった。桐山のヴァイオリンは、技術・音色とも申し分なく、安定した響きで、私たちを魅了した。武久は、前半を通してジルバーマン・フォルテピアノを弾いたが、テンポの速い楽章での活力ある打弦音と強弱効果、緩除楽章の夢幻的で奥行きのある響きの効果、などで第1番・第2番でこの楽器を選んだ理由がわかるような気がした。


しかし、この楽器の音色を単純に「美しい」と言い切ってしまうのは、非情に微妙な点において、抵抗を感じてしまう。なぜだろう。


統一感のある澄んだ響き、そして強弱表現を求めるならば、むしろ現代のピアノの音の方がずっと「美しい」ものであろう。それに比べて、ジルバーマン・フォルテピアノは、聴きようによっては、玩具のようにガチャガチャ響くし、プリペアードピアノのように気紛れにも感じられる。(それから、独特の地方的な?訛りを感じさせる打弦音そのものも好き嫌いの好みが分かれるかもしれない。)

この不確定でどこかノイジーな楽器の「美質」はどこにあるのだろうか。端的に言って、現代のピアノになくて、ジルバーマン・フォルテピアノにある機能は、多彩な音色を出す機能だと言える。具体的には、一つは、レジスター操作によって、薄い木片が弦に少しだけ触れることによって、独特のノイズを発する機能である。また、もう一つは、平行に張られた2本の弦を、ハンマーで両方いっぺんに叩いたり、1本だけ叩いたりする、切り換えの機能である。これによって、音の強度や音量を選ぶことが出来るだけでなく、1本だけ叩く場合には隣に張られた弦が豊かな共鳴作用をおこすというのだ。

これらの機能の発想は、アジアやアフリカの民族楽器に通じるものがある。前者のノイズ機能は、たとえば三味線の「さわり」やアフリカの親指ピアノの胴体に付けられた瓶の王冠と共通するものであり、後者の共鳴機能でいうと、シタール、サロッド、サーランギーといったインドの古典楽器の、胴体の下に張られたたくさんの共鳴弦が連想される。これらノイズ、倍音、共鳴音への嗜好は、アジア・アフリカに独特なものであったのではなく、人類の普遍的美意識であったと思われる。ジルバーマン・フォルテピアノをみていると、ヨーロッパでも、バッハの時代にはそれを機能化するほどの美意識が、はっきりと存在していたということが出来るだろう。近代化、合理化、制度化の中で、そういった美意識がそぎ落とされていったのだ。その結果が現代のピアノというものに行き着くのであろう。

さて、ジルバーマン・ピアノの二つの機能は、2×2=4通りの音色を導くということになるのだろうが、聴いている限りはそんな単純なものではない。楽器の音域によってその効果の程度が微妙に変わってくるように思えるし、何よりも打弦の強弱にとってもかなり変化するように聞こえる。それは、演奏者の鋭敏な耳と指の感覚で、微妙な色合いを調整し得るものであろうが、いくばくかは、偶然的な作用も孕んでいるように思われる。結果的に、その音色は漠然として耳にすると、どこか曖昧で模糊とした印象を受けるのではあるまいか。だからその美質を味わうには、アジア・アフリカ的な、あるいは非近代的な感性に立ち返る必要があるように思う。

そういった多彩な、あるいは予測不能な音色変化に対して、統一感を与えていたのは、むしろヴァイオリンの方かもしれない。



バッハのソナタの後には、やはりバッハだが、武久源造の編曲による有名曲が2曲演奏された。ヴァイオリン独奏による「トッカータとフーガ」とフォルテピアノ独奏による「シャコンヌ」だ。前者はもともオルガン曲だが、武久によると原曲はヴァイオリン独奏曲でありその復元を試みたということである。一方後者は、ヴァイオリン独奏曲を鍵盤用に翻訳したものである。ということは、音数でいうと前者は「大→小」、後者は「小→大」という全く反対のベクトルを表現することになる。少なからぬ聴き手が原曲をご存じであったろうから、たいへん楽しめたと思う。

「トッカータとフーガ」は、オリジナルの復元を試みたというが、それにしては、とんでもない難曲と言わねばならない。それは、6曲からなる「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の中のどれよりも演奏困難であるに違いない。オルガン曲をヴァイオリンに遷すのだから印象はずいぶん違うが、武久の編曲は、オルガン曲の複雑なハーモニーやポリフォニーを、どれだけヴァイオリン一挺に盛り込むかというところに主眼が置かれているように感じた。それにしても、桐山の演奏は、この難曲を敢然と制覇し見事に弾ききった。それは素晴らしい、というよりもの凄い力量という他ない。

一方「シャコンヌ」をフォルテピアノで演奏する武久も素晴らしい気迫だった。前日のリハーサルで、桐山建志は「シャコンヌ」の演奏はその舞曲の性格からして一般に演奏のテンポが遅すぎる旨のことを、しきりに語っていた。その会話での影響があったのかどうかはわからないが、武久の演奏は急きたてるようなものすごい速さだった。手元の時計を見ていたらなんと9分20秒で弾ききってしまったのだ! それでいて、中間部での弦の共鳴効果を巧みに用いた夢幻的な響きは、ことのほか印象に残った。




休憩後の第二部では、武久源造は、自身が持ってきたツェル・モデルのペダルチェンバロを弾いた。私たちが持っているカークマンモデルも足鍵盤つきの楽器であるが、この楽器は足鍵盤で操作するチェンバロ本体が、手鍵盤のそれから独立したもので、まったく武久源造の他に誰が演奏するのか、と思われるほど独特のものだ。

最初に、武久の独奏で、ブクステフーデの「プレルーディウム」が弾かれた。チェンバロの多彩な音色を楽しんで欲しい、との演奏者の言葉があったが、確かに多彩な色合いを次々に楽しむ面白さはあるが、フォルテピアノよりどこか落ち着いた印象があった。チェンバロの音色がフォルテピアノほどタッチによる音の変化が無いからであろうか。


続いて、ヴァイオリンが入って、ビーバーの「ロザリオのソナタ」から「受胎告知」が演奏された。桐山建志の艶やかで伸びやかなヴァイオリンの音色は素晴らしく、バッハとはまた違う美質を聴かせてくれた。また、足鍵盤による重低音の威力は凄まじく効果的であった。最後は、締めくくりにふさわしくバッハの「ソナタ第3番」で、飛翔する二人の名人芸を堪能した。

アンコールは、ビーバーの「描写ソナタ」。うぐいす、かっこう、かえる、猫などの動物の様子がヴァイオリンで巧みに描出され、大いに笑わせてくれた。と同時に、お客さんはバロック音楽の幅の広さも感じることが出来たのではないだろうか。


この二人の名人の演奏に、これだけの名曲を揃えたのだから、悪かろう筈はないのだが、しかし、二人が型どおりの名演をやってのけるのではなかった。あらゆる面で、表現することに意欲的であった。バッハのソナタをフォルテピアノで弾くということに象徴されるように、創造的な音楽家は、実験と成果を同時進行させるものだ。また同じプログラムで演奏しても、その方法・表現は、変化・深化しているに違いない。この日もまた、音楽を聴く喜びを、腹の底から感じたのだった。



最後にいつもながら、石塚牧師はじめ延広教会のみなさまに全面的にご協力をいただいたことに、心から感謝申し上げます。会場を提供して下さっただけでなく、昼食にカレーを用意していただき、教会員の方々と食したのも、得難い体験でした。加えて、お客さんとしてきて下さり、はては打ち上げまで…、まったくお世話になりっぱなしでした。


 (全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)