笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2014-03-10

大井浩明ピアノ・リサイタルを終えて

大井浩明ピアノ・リサイタルを終えて

 大井浩明のような爆発的な才能を紹介するのに、「ピアニスト」という言葉で括って言ってしまうのに抵抗を覚える。高橋悠治や武久源造の演奏会を催したときも、同じようなジレンマを感じ続けていた。もっとも、催す側の私が、これらの音楽家のことを語る何を知っているのか、いささか心許ない。それを承知で、大井浩明の多様な才能のいくつかを、ピアノ一台を弾いてもらうことで、紹介しようというのが、今回の演奏会の大きな趣旨であった。

 大井浩明は、まず「現代音楽」の紹介者として世に知られるところとなった。かつて「前衛」とよばれた作曲家たちも、21世紀も14年を経ようとしているいま、あるいは大家として尊敬を集め、あるいはもはや故人となっている者も少なくない。そうした、かつての「前衛」を、ベートーヴェンやシューベルトを演奏するのと同じように、「古典」として捉えて演奏してみようという視角が、大井浩明にはある。

 それから、バロック~古典派に、古典として価値の定着した作品群を、正真の価値を見出そうしていこうという、古楽的なアプローチである。大井浩明は、そのために、クラヴィコードやチェンバロ、フォルテピアノを用いる。特筆すべきは、ベートーヴェンの演奏で、32曲あるピアノソナタを、それぞれの時代に用いたフォルテピアノを用意し、全曲を演奏しようというリサイタルのシリーズが、近々完結する。大井浩明は、それにとどまることなく、9曲の交響曲、大フーガを含む17曲の弦楽四重奏曲をも、ピアノ独奏用の編曲版で弾いてしまうのである。これを酔狂と捉える向きもあるかもしれないが、大作曲家ベートーヴェンの全体像を身をもって体現するための、偉大な献身であるように私には思える。

 そして、リアルタイムの、まさに現代に生きる作曲家の作品を、有名/無名に関わりなく広く紹介していこう、という側面である。

 もちろん、ここからこぼれる大井浩明の才能は多々あろうし、ひょっとしたらご本人としても満足ではないかもしれないが、ひとまず、こういった理解にとどめておくことにしたい。いずれにしても、かつて一人も存在しなかった、「ピアニスト」としてのありようである。


 さて、「古典の前衛・前衛の古典」というリサイタルの名は、大井浩明に許しを得て、私が付けた。大井浩明自身は、十全な満足ではなかったようだが、ベートーヴェンの29番と、シュトックハウゼンの10番を、対置させる大胆なプログラムが決まりかけた時に、思いついた。言うまでもなく、「古典の前衛」とはベートーヴェンであり、「前衛の古典」とはシュトックハウゼンである。演奏会では、これに広島県呉市に在住の作曲家、寺内大輔の委嘱新作「地層」が加わることになった。これは、「古典の前衛・前衛の古典」のタイトルの趣旨から逸脱することになるが、前二者に加え、先に触れた、三つ目の大井浩明の姿に対応することになった。

 自分が催した演奏会を、自分で批評するのはどうも気が引けてしまうので、シュトックハウゼンの「ピアノ曲Ⅹ」についてのみ、感じたことを少しだけ書いて置きたい。

 先に触れたように、大井浩明は、この「きつい」前衛作品を、古典として捉えようとしているということだ。この曲は、1954年に作曲され61年に改訂されている。肘打ち平手打ち等のいわば暴力的な技を頻発させるのは、フリージャズ・ファンの私としては、その後ほどなく現われるセシル・テイラーやわが山下洋輔の方法を連想させる。テイラーも山下も強力でスピード感のあるドラムとサックスを従えた、肉体の饗宴であった。YouTubeに掲載されている映像の中にも、そうしたフリージャズそのもののような演奏もあった。

 しかし、大井浩明のやり方は違っていた。初演者のアロイス・コンタルスキーの演奏では22分余のところを、大井浩明はおよそ30分もかけていた。巨漢の大井浩明が猛烈なスピードでこの曲を弾いたら、さぞかし迫力があるだろう、と「期待」のようなものも抱いていた。ところが、大井浩明は、破片のような音を繋ぎ合わせるのではなく、空間に放り出したまま、楽譜を凝視する。長い長い無音の時と炸裂するノイズが交互にあらわれる。それは心地よいものではなかった。むしろ苦痛とある歪んだ感覚をともなう時間だった。でも、それがこの作品が求めるところなのだろう。

 この「音楽」が、2014年という時に、何か意味を付与できるのか。そうだ、とも言えるし、そうではない、とも言えるような気もした。



(全文・主宰 写真,改行・石原健)