若松夏美を招くのは5回目、武久源造はなんと11回目と、私たちにとっては、馴染みの深い音楽家であるが、当地で共演してもらうのは、今回が初めてのことであった。いつか一緒に演奏してもらいたいという年来の願望を叶えることが出来た喜びを、なんといえばよいだろうか。しかし、この演奏会を実現するのはなかなか容易ではなかった。二人のスケジュールを調整するのが難しく、いったんは諦めかけた。しかし、二人の努力で連休中の5月5日になんとか日程をあわせることができた。
演奏会のプログラムは、二人の合議によって決定したが、それぞれの好みや得意を優先させるというよりも、演奏会総体を見渡した起伏やまとまりに強く配慮した選曲であったように思われる。武久源造は、事前に提示させていただいた解説文に、彼がソロで演奏する「トッカータBWV912」に神学的解釈を施していた。この華麗なことこの上ない小品を、何の知識もなく聴いたとしても、それはそれで耳の愉悦として贅沢なものだが、武久源造は、そこに隠されたイエスの復活物語を読み取ろうとする。それは、たまたまそう読めたというものではなく、いまが教会暦で復活節にあたり、その歓びを表現する楽曲としてこの「トッカータ」が選び出されたというわけなのだ。それはちょうど、インドの古典音楽で、演奏者がその季節その時間そしてその時の情感にもっとも相応しいラーガを選び出し、音楽通の聴衆はそれがどのラーガなのかを前奏にあたるアーラープの場面で見出そうとするのに似ている。
私たちは、すでに、「ゴールトベルク変奏曲」や「インヴェンツィオンとシンフォニア」で、楽曲に潜むこのような神学的解釈=イエスの受難と復活を中心とした物語を学ぼうとしてきた。音楽がそれ自身だけの価値をもって取捨選択され消費されている現代とはまったく異なる、バッハの時代の音楽の受容のされ方について、いくらかでも洞察してきた。
そうした視点で見ると、この「トッカータ」だけでなく、プログラム総体がそのような物語で構成されているのではないかと想像したくなる。
たとえば、演奏会の冒頭に配されたロ短調の第1番のソナタは、十字架上のイエスの死を看取る女たちの悲しみを示しているのではないか、続くイ長調の第2番のソナタの冒頭は、墓に葬られたイエスを見に行こうとする女たちの朝の風情のように感じられはしないか。自信はないが、そんなふうに解釈したい欲求に駆られるのだ。
十数年ぶりとなる共演ということで、主催する者としては、ジャズ的とでもいおうか、即興的な閃きに溢れたライヴになることを期待した。実際、音楽の瞬間瞬間の目くるめく跳躍は素晴らしいものであった。また一方で、聴きにきて下さった方々は、物語の緩やかな流れを、気配として感じとる感興もあったに違いない。
それから、暑くもなく寒くもない、礼拝堂の窓を充たし、ゆったりと暮れていく晩春の日射しは、音楽を聴くのにこの上なく、心地よいものにしてくれた。若松夏美の独奏による、「パルティータ」を聴きながら、この瞬間が永遠のものならば…と限りない愛惜を思うのだった。
(全文・主宰 写真,改行・石原健)
(全文・主宰 写真,改行・石原健)