グスタフ・レオンハルトが亡くなった。遅れてきたバッハファンにとっては、グレン・グールドやカール・リヒターよりも、レオンハルトのCDで、バッハの名曲たちに初めて出会ったものだ。「平均律」「インヴェンションとシンフォニア」「フーガの技法」「音楽の捧げ物」「フランス組曲」「カンタータ」「マタイ受難曲」…思い返せば、全部レオンハルトから入った。オリジナル楽器によるバッハ演奏家として、レオンハルトの演奏したCDは文字通り画期的だった。だから、彼の逝去には感慨はひとしおのものがある。
残念なのは、一度もライヴを観られなかったことだ。三年前の春に、チェンバロリサイタルの切符を買っておきながらも、仕事の都合で行くことが出来なかった。それがいささか悔やまれる。しかし、その時はそれほどには思わなかった。なぜだろうか。
あの時、レオンハルトはすでに80歳であったのだから、二度と聴くチャンスはないかもしれない、とはぼんやりとは思っていた。でも、その後もう一度来日したおりには、聴きに行きたいとは思わなかった。
巨匠の時代は終わっている。その頃には、いまも継続している古楽の演奏会を時々催していた。鈴木秀美や若松夏美の演奏に完全に魅せられていた。音楽の都は、ウィーンでもパリでもアムステルダムでもなく、東京であり大阪であり、ひょっとすると自分たちの街でもある、そんな感じがあった。いま目の前にいる、私たちの国の音楽家に注目する方が、遠い国からやってくる老巨匠を遠くから眺めるよりも、ずっとリアルでラヂカルな経験だった。
ジャズについても似たような経験がある。マイルス・デイヴィスが最後に来日したのは、たしか1988年夏の「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」だったと思う。当時の私は、マイルスなんかに全然興味は無かった。お目当てはサンラ・アーケストラで、サンラを聴くためだけに大阪に行った。そのステージはほんとうに素晴らしいものだった。私は、この感動を薄めてはいけないと思って、サンラが終わったらいそいそとバスに乗って会場を後にした。次のステージのデヴィッド・サンボーンのご機嫌なサックスの音が、聴衆の大歓声とともに聞こえてくる。「馬鹿な奴らめ」と思いつつ、サンラの目くるめく演奏の興奮に浸っていた。トリに出演することになっていた、マイルス・デイヴィスは、その姿さえ見ることも無かった。いまもそうだが、ジャズを聴きにニューヨークへ行きたいなどとは思わない。(もっともニューヨークへ行ったら、ついでにジャズを聴くかもね)ジャズはとうの昔に中心を消失している。マイルスの死も巨匠の時代の終わりを意味していたのだ。
さてそれでも、レオンハルトを通して、私はバロック音楽の名曲に触れた。それは、やはり素晴らしいことだった、と言うほかはない。おそらく、ネット上にも雑誌にも、レオンハルト追悼の文字が多く出るだろうし、レオンハルトを近い場所で知っている人たちは、その人にしか持ち得ない感慨をもって故人を語ることであろう。私も、一読者として、興味深くそれらを読むことになるのだろう。でも、それはそれだ。
レオンハルトの愛聴盤はたくさんあるのだが、ベストはと尋ねられれば、「オランダのルネサンスとバロック・オルガン」(SEON)という一枚だ。その一曲目にあるブクステフーデの「プレルーディウムト短調」は何度も繰り返して聴いた。名曲だけにCDはいっぱい出ている。最近では、大塚直哉がチェンバロでやっている「トッカーレ」という題名の一枚(ALM)はたいへんおもしろいものだった。
実は、武久源造にこの曲を演奏してほしいと何度か依頼した。「はっは~またね」と例の豪快な笑いとともに、忘れ去られたかに思えたが、最近になって、この1月29日(日)の演奏会のプログラムにこの曲を加える旨を伝えてきた。
プログラムには載せるつもりはないが、武久源造のブクステフーデ「プレルーディウムト短調」は、レオンハルトへのトンボーとして、私は聴くことにしよう。そして、巨匠の時代へのトンボーとしても。
(全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)