笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります
2012-11-20
2012-11-19
笠岡路上観察研究会 写真集に触れて
写真集 去りゆく笠岡 生まれ出ずる笠岡 を拝読しています。
見慣れた景色 ・ 少し遠い見方 ・ 見落としていた角度
同じものでも、人の数だけ捉え方は違うのですね。
知り尽くしたつもりの町だからこそ、
その違いが大きく、そして小さく。
見慣れた景色 ・ 少し遠い見方 ・ 見落としていた角度
同じものでも、人の数だけ捉え方は違うのですね。
知り尽くしたつもりの町だからこそ、
その違いが大きく、そして小さく。
2012-11-18
なにもかもを置き去りにして
それぞれ今日のイベント(もちろんお店も)に関わる皆様には、
勝手なことで本当に申し訳ないです。
そんな中、無事行って参りました、下関。
日程的な無理を押して行ったことには、
相応の収穫がありました。
朝、3時半起床ですので、さすがに眠いです。
また、追々に振り返ります...。
勝手なことで本当に申し訳ないです。
そんな中、無事行って参りました、下関。
日程的な無理を押して行ったことには、
相応の収穫がありました。
朝、3時半起床ですので、さすがに眠いです。
また、追々に振り返ります...。
2012-11-17
学芸会2012が終わりました
今回の学芸会、何が素晴らしかったって、部員さんが一丸となって
撮影に臨んでくれたことです。
明るさと動きといえば、とても難しい被写体ですが、真正面から
それにぶつかってみないと、何もわからないいまま
活動の山場を通り過ぎるだけです。
さあて、整理、ですよ...。
2012-11-16
武久源造チェンバロ・リサイタル 11月18日いよいよ
武久源造チェンバロ・リサイタル
2012年11月18日(日) 17:00
日本キリスト教団福山延広教会(福山市本町1-6 084-923-0094)
曲
バッハ
「インヴェンツィオンとシンフォニア」(全曲)
主催:ジャズ大衆舎
2012-11-15
インヴェンツィオンとシンフォニアについて Part15 完結編
インヴェンツィオンとシンフォニアについて Part15 完結編 武久源造
前回は、私が楽譜というものをどのように考えて演奏しているか、ということについ て語っているうちに、例によってまた、話が広がり過ぎてしまいました。 さて、この連載もいよいよ今回でPart15.インヴェンツィオンと同じ数になってしま いました。これまで読んでくださった皆さん、本当にお疲れ様でした。 この連載で私は、主に聴き手の皆さんに向かって語ってきました。したがって、演奏 の専門的な内容については、極力立ち入らないように努めてきた(つもりです)。そ れなので、例えば、演奏家にとってはどうしても欠かせないテーマであるテンポや装 飾音の問題には、あえて触れてきませんでした。それらについて語り始めると、何冊 もの本ができてしまうからです。しかし、テンポのことについては、ここで一言触れ ておく必要があるかもしれません。 バッハは『インヴェンツィオン』と『シンフォニア』の楽譜に、テンポを支持する言 葉は一切書き記していません。それでは、我々演奏家はどうやって曲のテンポを決め たら良いのでしょうか。曲想から判断して、主観的に決めるしかないのでしょうか。 19世紀から20世紀にかけて出版された、これらの曲の楽譜は、多くの場合「権威ある 専門家」が楽譜を肯定していて、そこではそれぞれの曲にアレグロやアンダンテなど のテンポ標語が(勝手に)書き込まれています。また、これらの曲の録音も、今まで に数限りなく出ていますが、私の目から見ると、テンポに関する限り、それらの演奏 解釈は、かなり主観的に過ぎる、と言わざるを得ません。 バッハの時代、ドイツでは未だに中世音楽の伝統が生き残っていました。それによれ ば、テンポはまず拍子記号によって支持されます。基本音価を中心に体系化された記 譜法の理論によって、例えば4分の4拍子なら、ほぼこのぐらい、8分の3ならばこのぐ らい、という風に、だいたりのテンポの枠組みが決まっていたのです。しかし、それ では4分の4拍子なら、いつも同じテンポになるのでしょうか。それではあまりに窮屈 ですね。もちろん、そんなことはありません。ここで演奏家が注目しなければならな いのは、 1)曲想を決定している基本音譜の速さ、 2)リズムの面から見た場合の1小節内のアクセントの数、 3)和声変化の密度、 の3点です。これらを考慮しつつ、拍子の枠組みの中で、1曲1曲の最適なテンポを柔 軟に決めていくわけですが、それは上に列記した客観的な指標に基づいて決定しうる ものです。なるほど、そこには、主観的な判断も関わってくることは避けられません が、それは、現在一般に信じられている「常識」とは違って、極僅かなものです。 我々 は、バッハの時代の「常識」を学び、それに親しみつつ、さらに我々自身の長年の経 験によって、その知識を肉体化しなければなりません。そうして初めて、それぞれの 曲の最適なテンポを見出すことができるのです。それはまた、楽器の状態、演奏会場 の響き具合、または、その場の温度や聴衆の集中度などによっても、微妙に影響され ます。かつて、大指揮者チェリビダッケが言った「ベルリンのテンポを、ロンドンに 持っていくことはできない」という言葉は、私もいろいろなところで実感させられて います。つまり、最適なテンポというものは、コンサートの度に、そこでしか味わえ ない1回限りのものなのです。だからこそ、我々は長年の経験を積む必要があるので す。 もう一つ、テンポに関して重要な問題があります。それは、そもそもテンポをどう感 じるか、という問題です。20世紀は、機械文明の時代でした。我々は、こちこちと正 確に動く機械に囲まれています。それによって、我々の生活感覚、時間間隔も根本的 に影響されていて、機械的に正確に動く物を美しい、かっこいいと感じる美意識が瀰 漫しています。 一方、今から100年以上前に録音された19世紀の名人たちの演奏が、レコードやピア ノ・ロールの形でかなりの量残されています。それを聴くと、彼らのテンポ感が、 我々 のそれとはそうとうに違っていることに、嫌でも気づかされます。もちろん、19世紀 の演奏スタイルもいろいろあったので、一概には論ぜられないのですが、少なくとも 彼らが、機械的な正確さを求めていなかったことは確かです。では、バロック時代に はどうだったのでしょうか。これは、当時のいろいろな証言を読んで推測するしかあ りませんが、例えば彼らが「正確な演奏」と言うときにも、我々が思うような機械的 な正確さではなかっただろうということは確かです。 このことを前提にしてお聴きいただきたいのですが、バロック時代には、大きく2種 類のテンポ概念がありました。その二つとは、Tempo della mano(手のテンポ)と Tempo dell'affetto(感情のテンポ)です。これを定式化したのは、モンテヴェルデ ィを中心とするイタリア人たちで、彼らの新しい活動によっていわゆる「バロック時 代」が始まったのでした。それは、バッハのほぼ100年前のことです。 手のテンポとは、つまり、指揮者によって導かれるテンポであり、これによって、イ ン・テンポの音楽となります。バッハ作品でいえば、オーケストラ付のコンチェルト などはその例です。それに対して、感情のテンポとは、個々の奏者が、アフェット (感情)に従って、自由にドライブするテンポのことです。ただし、ここで言う「感 情」は、19世紀流の情緒(エモーション)とは違います。気ままに揺れ動き、次にど うなるのか予想が付かない、といったロマン派的な情緒とは異なり、バロック時代の 「感情」は、客観的に類型化された心理現象、つまり、悦び、悲しみ、嘆き、感応な ど、万人に共通の感情であって、バロック時代の芸術家たちは、それらの感情のそれ ぞれに相応しい合理的な表現手段を探し求めたのでした。音楽では、独奏、独唱、お よび、小アンサンブルの作品で、特にこのアフェット表現が追及されました。『イン ヴェンツィオン』と『シンフォニア』もまた、この種類に属することは、言うまでも ありません。 『インヴェンツィオン&シンフォニア』の1曲1曲が、それぞれ、悦び、悲しみ、快 さ、 嘆きなどの、人間感情(アフェット)の深みを表現していることについては、この連 載でも、調性格論と結びつけながら詳述しました。これを考えるとき、バッハはけっ して、これらの曲を「子供用の作品」とは見ていなかったことが分かります。「子供 用の曲」と私が言うのは、現在世の中に流布している、いわゆる「子供のための教 材」 のことです。なるほど、バッハは『インヴェンツィオン』を、長男フリーデマンのた めに書き始め、その後、相次いで生まれた子供たち、また、弟子たちの教育の為に用 いました。しかしそれだからといって、バッハは、ここで、曲のレベルを下げたり、 内容を単純素朴なものにしたり、無邪気なものにしたりはしていません。それどころ か、『シンフォニア』第9番に見られるように、バッハ作品の中でも、最も深い宗教 的悲しみを湛えた作品すら、ここには含まれているのです。これに対して、今日で は、 子供は素朴であり、無邪気であり、素直であり、…(あるいは、そうあって欲しい) と我々は思い込んでいるのではないでしょうか。したがって、子供のための作品も、 かわいくて、無邪気で、分かりやすくて、…という風な類の物が、我々の周りに溢れ ています。これは、近代人の子供感に基づくものです。 フランスの歴史家フィリップ・アリエスが、あの『子供の誕生』を発表したのは1960 年のことでした。「子供は、近代になって発見されたものであって、それまでは、子 供と言うものはいなかった。中世には、彼らはあくまでも、小さな大人であった。」 というショッキングな仮説は、我々の記憶に新しいところですね。この仮説は、大議 論を巻き起こし、いろいろ反論も出されているようですが、『インヴェンツィオン』 におけるバッハの態度を見る限り、アリエスの仮説は、かなり当たっているように思 われます。 「『インヴェンツィオン』は、けっして子供用の作品ではない」と、声を大にして、 時としては怒りを込めて主張したのは、チェンバロの復興者ワンダ・ランドフスカで した。彼女がそれを言ったのは、特に、第2次大戦後、彼女がアメリカに亡命してか らのことです。アメリカでは、主にピアノでの演奏の難度から判断して、鍵盤曲を何 段階かのグレードに分けて分類する習慣があります。ランドフスカは、これに怒りを 発したというわけです。『インヴェンツィオン』は、後のピアノ音楽の楽譜と比べれ ば、確かに、簡単で、単純な音楽に見えます。しかし、それは表面上のこと。これら の曲をチェンバロで、真に味わい深く聴かせるためには、該博な知識、成熟した感 性、 および、極めて高度な演奏技術とを要する。そのことをランドフスカは、あちこちで 語り、また、文章にしています。私も、この点、全く同感であることは、ここまでこ の連載に付き合っていただいた方には、容易に推察していただけることと思います。 この稿の最初に述べた通り、『インヴェンツィオン』と『シンフォニア』は、バッハ が我々に残した「チェンバロ詩集」であり、彼の「音楽日記」であり、また、彼の 「研究ノート」でもあるのです。その1ページ1ページを、共に紐解こうではありませ んか。なんと、わくわくすることでしょう。このような宝を残してくれたバッハに、 心からの感謝を、そして、これを共に味わう皆さんには心からの友情を捧げて、この 書き物を終えたいと思います。 (全文・武久源造 写真・optsuzaki)
※Part15のみ改行編集及び校正なしで、掲載とさせていただきました。
2012-11-14
インヴェンツィオンとシンフォニアについて Part14
インヴェンツィオンとシンフォニアについて Part14 武久源造
前回は、私がこのコンサートに使おうと思っているチェンバロのストップの組み合わ
せについて具体的に例示しつつ、説明しました。かなりややこしい話なので、読まれ
た方の中には、うんざりされた方もあったことでしょう。だとしたらごめんなさい!
しかし、ともかくも、これらの音色を使うためには、事前の準備が重要です。繰り返
しになりますが、今回用いるチェンバロには2段の手鍵盤があります。このチェンバ
ロの音の数は61ですので、鍵盤の数はその2倍で122になります。これらの鍵盤は、温
度変化によって動きが悪くなることもありますので、それを万全に手入れする必要が
あります。
さらに、このチェンバロにはジャックが4列あります。ということは、音の数の4倍で
244本のジャックがある、ということです。つまり、それだけの数の爪を最良の状態
にヴォイシングしなければならないわけです。
また、弦は3セットありますので、音の数の3倍、即ち合計183本となります。これを
全て適切に調律する必要があります。これだけの準備をして初めて、前回述べたよう
な音色を、十分に使える状態になるわけです。なかなかしんどい話ではあります。
毎回コンサートの前には、必死になってこれらの作業をするのですが、やはり、全て
の面で、常に完全な状態に、とはなかなか行かないこともあります。そういう場合に
は、いくつかのレジストレーションは使えない、あるいは、演奏しづらいということ
にもなりかねません。
もちろん、そのような事態にならないよう、今回もベストを尽くしますので、安心し
てくださって大丈夫ですよ(苦笑)。
さてここで一言、チェンバロ演奏における楽譜の問題について触れておきましょう。
今回の演目は、皆さんおなじみの曲ばかりだと思います。中には、インヴェンツィオ
ンならば全て憶えている、という方もいらっしゃると思います。そういう方が私の演
奏を聴かれた場合、「あれっ、楽譜と違うぞ」と、いぶかしく思われる個所がいくつ
かあるかも知れません。そうです。私は、いわゆる「バッハの譜面通り」には弾いて
おりません。これにはいくつかの理由があります。まず、前述のようにバッハはこれ
らの曲を何度か楽譜に表しておりますが、その都度少しずつ変えています。良く知ら
れた例としては、『インヴェンツィオン』の第1番。今残っているバッハの自筆譜で、
最後に書かれた楽譜では、この曲の3度跳躍の部分が埋められています。つまり、主
題のド・レ・ミ・ファ・レ・ミ・ド・ソの中の、ファ・レとミ・ドのところが、ファ
ミレ、ミレドと3連譜で書かれているのです。このように、元々3度富んでいるところ
を、間を埋めるように音を入れて繋ぐのは、フランス風の装飾の中の、いわゆるティ
エルス・クレ(3度走音)と呼ばれる技法です。『インヴェンツィオン』第1番に、こ
のティエルス・クレを付けて弾くのが、バッハが最後に到ったこの曲の姿、即ち最終
稿であるのなら、皆それを尊重してそのように弾くべきだ、と主張する学者も多いの
です。しかし、世の大半の演奏家は、そのようには弾かず、バッハがより初期に書い
た装飾なしのシンプルな形で弾いています。これは、どちらが正しいのでしょうか。
……
誤解を恐れずに言うなら、音楽を含めてあらゆる芸術表現に、正誤の違いはありませ
ん。したがって、ここでも「どちらが正しいか」という問題の立て方そのものが間違
っているのです。正しいか、正しくないか、という区別は音楽にはない。あえて言う
ならば、好きか、嫌いか、という区別があるだけです。仮に、バッハその人に質問で
きたとして、「これは、どちらの形で弾けば良いのでしょうか。シンプルな方でしょ
うか、装飾付の方でしょうか」と訊いたとしても、おそらく、「君のお好きなよう
に」という答えしか返ってこないでしょう。
しかし、今私たちが子供たちを教育する立場からすると、いつも、「君のお好きなよ
うに」と言ってばかりでは巧くいかない、というのもまた事実です。ある種の先生と
しては、やはり立場上、「これが正しい弾き方である。だから、あっちの弾き方は間
違いである」と言わねばならない。この、見かけ上の矛盾が、いわば、世界のクラシ
ック音楽界を混乱に陥れている元凶なのです。
「ということは、武久さんは、バッハの譜面を無視しても、自分の好きなように弾
く、ということなのですか」という質問がどこかからやってきそうですね。
答えはもちろん「否」です。私は、可能な限り、バッハの残した譜面は全て見ます。
これは何も、バッハに限ったことではありません。過去の巨匠たちの音楽に向かうと
きは、いつもそうです。恋人から来たラブレターででもあるかのように、それらの楽
譜の細部の意味まで理解しようとし、さらには、裏に隠された背後の意味まで推測し
ようと、毎日頭を搾っているのです。そうして、いざ自分が弾く時には、まるでラブ
レターに返事を書く時のように、興奮を抑えつつも、相手を尊重し、相手に嫌われな
いように用心してかかります。しかし、ラブレターの場合もそうですが、ただ、相手
の顔色ばかりうかがっているだけでは、やはり、いずれは嫌われてしまうでしょう。
時には、こちらも大胆に「あなたが本当に言いたいのはこういうこと?」、「でも、
私はこう思うのですよ」と言うような気持ちを込めることもある。
いや、言うまでもなく、バッハは私などがその足元にも寄れないほどの達人です。な
れなれしく口をきくのも憚られます。しかし、バッハの霊(そのようなものがあると
して)と対話することは、たぶん許されるし、バッハもそれを喜んでくれるのではな
いかと思うのです。この記事の最初の方で述べましたように、目に見えない者とのコ
ミュニケーションが、古代以来、西洋でも東洋でも、我々の教養の第一歩であるとす
れば、そしてたとえば、孔子が示唆しているように、亡くなった人が、今なお微かに
発しているメッセージを聞き取ろうとすることが、我々生きている者の最重要の務め
であるのならば、音楽は、その最も美しい手段となりうる、と言えるでしょう。
さて、では、私が『インヴェンツィオン』第1番に関して、いかなる結論に至ったか
ということですが、私は、世に行われている大半の演奏とは違って、ただシンプルに
は弾きません。かといって、多くのバッハ学者が主張しているように、この曲の3度
を全て3連譜で埋めることもしません。では、どうするのか。…
それはコンサートにお出で下さって、皆さんどうかご自分の耳で確かめてください。
第1番だけではなく、私は、随所で、一風変わった弾き方をしたり、楽譜にはない装
飾を入れたりしています。もしも、それらを判断する基準があるとすれば、それは、
チェンバロと言う楽器、そして、バッハの音楽を、私がどれだけ愛しているか、それ
が、独りよがりの独善的な思いに堕することなく、開かれた生きたコミュニケーショ
ンを生み出し続けているかどうか、という点に求められるでしょう。そして、それを
最終的に判断してくださるのは、聴き手の皆様御一人御一人に他なりません。
ところで、バッハは、当時としては異例なほどに、ヨーロッパ各国の先人、および、
同時代社の作品の楽譜を集め、自ら写譜しています。コレクターとして、かなりの
「おたく」だったと言えるでしょう。したがってバッハの作品を弾く時は、我々も、
視野を広げて、少なくともバッハが知っていた範囲の音楽は知っておくべきです。そ
れらの音楽の語法を掌中に収めることで、「バッハなら、ここでこういう風に弾いた
可能性もあっただろうな」と、創造の翼を広げることができるからです。しかし、お
そらく、それだけでは足りないでしょう。バッハ以後、ハイドンもモーツァルトも
ベートーヴェンも、シューマンもショパンもブラームスも、または、ドビュッシーや
ラヴェル、チャイコフスキやスクリアビン、はたまた、滝廉太郎や山田幸作にしても
みんなみんな、『インヴェンツィオン』を始めとするバッハ作品を弾き、それを憶え
自分の音楽の糧としてきたのです。(あまり知られていないことですが、滝廉太郎は
ピアニストとして、バッハの『イタリア協奏曲』を日本初演していることは、注目に
値します。)我々の演奏は、これらの先人たちの営みの延長にあるのです。したがっ
て、たとえば、ベートーヴェンがバッハをどのように弾いたのか、ということも、
我々は知っておくべきだと思います。(ベートーヴェンの演奏法に関しては、その弟
子のツェルニーの書き残した物から、ある程度推測することができます。)または、
これもあまり知られていないことですが、ショパン、リスト、ヒラーという、当時の
3大名人が、バッハの『3台のチェンバロのための協奏曲』を、ピアノを使って公開
演奏した際(おそらく、復活初演)、彼らがどのようにバッハの譜面を弾いたのか、
ということに思いをはせてもいいでしょう。我々は、今日バッハを弾く時、バッハの
霊だけでなく、これら、その後に現れた巨匠たちの霊とも対話するべきだと、私は思
っています。
さて、対話というものは、相手の言うことばかり聴いていては成り立ちません。こち
らも雄弁に語らなければならないのです。バッハを弾く時、私が日本人であること、
そしてそれゆえに私が血の中に持っている(はずの)邦楽の音階や音組織への傾斜を
も、私はけっして捨てようとは思いません。また、私が世界各地で経験した民族音楽
特に、20世紀後半が産み出した最高の音楽(と私が信ずる)ジャズの体験を、遠慮な
くバッハにぶっつけます。そうでないと、私の全霊を打ち込んだ誠実な対話にはなら
ないからです。しかし、このような対話では、必ずしも何かの答えが、直ちに得られ
るわけではありません。むしろ、何らかの答えを得ることが目的ではないのです。
対話をしようとする心の在り方そのものに意味があるのです。対話を根気よく続けて
いるうちに、「私は、こう弾こう!」という確信が、理屈ではなく、何かとても暖か
い気持ちと共に、湧いてくる。こういうときに、彼らとの対話の意味を痛感するので
す。これが、私にとって、創造的演奏の産まれる瞬間です。
このように、音楽に限らず、目に見えない者、耳に聴こえない者との生きたコミュニ
ケーションこそが、我々の未来を創り出す唯一の手段であると、私は信じているので
すが、しかしそれにしても、そこに愛がなければ、上に書いたことは、全て空しい雑
音でしかなくなるでしょう。この「愛」という言葉は、そのまま「キリスト」という
言葉に置き換えても同じことなのですが、…
うーん、これ以上書くと、『コリント人への手紙』の中になだれ込んでしまいそうな
ので、今回はここまでにしておきます。
(全文・武久源造 写真,一部校正/改行・optsuzaki)
2012-11-13
インヴェンツィオンとシンフォニアについて Part13
インヴェンツィオンとシンフォニアについて Part13 武久源造
前回は、チェンバロのストップ操作による音色の変化について語るつもりが、少し話
の路線が変わってしまいました。
我々の先人たちが開発した、チェンバロ演奏の技法と、チェンバロ音楽の解釈の手法
には、実に多種多様なものがありました。その中には、モダン・チェンバロの名手た
ちが発展させた方法もあり、また、ヒストリカル・チェンバロの時代になって発見さ
れた新しい(実は古い)方法もありました。さらにチェンバロ演奏には、まだまだ未
知の部分、未開拓の領土が広がっています。時折にもせよ、新しい(しかしやはり、
本当は古い)演奏の秘訣を発見する瞬間が、私のような菲才な者にも訪れます。そう
いうとき、一瞬有頂天になったりもしますが、次の瞬間、ひょっとしたら、これは世
界中の人たちが、みんなとっくに知っていたことであって、知らないのは私だけだっ
たのかも知れない、などと思って、妙にやるせなくなったりもします(笑)。
さて、今回は、私が来る18日の演奏で、どの曲にどういう音色を使おうと思っている
のか、具体的に語ってみたいと思います。このコンサートは、全体のデザインとして
は、前半のインヴェンツィオンでは、より多彩で大胆な音色の変化を試み、後半のシ
ンフォニアでは、より落ち着いた緩やかな変化を考えております。
ところで、今回の原稿執筆には、意外に時間がかかってしまったのですが、それは実
は、私がこれを考えている間に、いくつか新しいことを発見してしまったからなので
す。この解説のPart11で私は、今回用いるチェンバロでは・13種類の異なる音色を作
れる、と書きましたが、実はその後、ちょっとしたアイディアを思いつき、今では合
計17種類の音色を創れることが分かったのです。その内、今回の『インヴェンツィオ
ン』の演奏では新発見の音色も含めて、13種類のレジストレーション(ストップの組
み合わせ方)を用いようと思います。ここで私が、新発見と言っているのは、主に共
鳴弦の使い方に関するアイディアです。
それらを、ここでできるだけ詳細に解説しておきましょう。このように、演奏に先立
って、当日用いるチェンバロのレジストレーションを公開し、それについて解説する
などということは、私も初めての経験ですし、今までにそのような例を聞いたことも
ありません。そういう意味では、これは画期的な新機軸と言えるかも知れません。
とはいっても、ここでは主にインヴェンツィオンについて語り、シンフォニアについ
ては、やはり、当日のお楽しみ、ということで、あえて多くを語らないことにしてお
きます。
また、以下の解説では、できるだけ分かりやすく語りたいと思いますが、どうしても
チェンバロの専門用語をいくらかは使うことになります。ご不明な方は、どうか、私
の前の記事も参照してくださいね。
『インヴェンツィオン』第1番を、私はまずバック8'のソロで弾き始めようと思いま
す。このストップは、一般にチェンバロ演奏では、最も頻繁に使われるものです。こ
れを、チェンバロのメイン・ストップと信じて疑わない専門家も多いのです。しかし
私は必ずしもそうではないと考えています。なるほど、このバック8'のジャックは、
下鍵盤に乗っており、つまり、これは下鍵盤で弾くストップであるわけですが、2段
あるうちの下鍵盤というのは、オルガンの場合ならば主鍵盤です。したがってチェン
バロでも同じように、下鍵盤を主鍵盤と考えても良さそうです。
しかし一方、チェンバロの歴史では、このバック8'のジャック列は、比較的後期にな
ってから付け足されたニュー・フェースでした。たとえば、16世紀の北ヨーロッパで
一般的だった、1段鍵盤のみのチェンバロでは、8'は、多くの場合1列しかなく、それ
は、後の2段鍵盤チェンバロでいうところのフロント8'と同じ位置に置かれたストッ
プでした。それを考えると、バック8'ではなく、フロント8'こそが、長い歴史を通じ
て、チェンバロの不動のメイン・ストップであった、と言ってみたくなります。
まあそれはともかくとして、バック8'は、強い、幅広の爪ではじくならば、オーボエ
に似た太い音を出しますが、弱い細めの爪ではじくことによって、ヴァイオリンに似
た音にすることもできます。爪の削り方(ヴォイシング)によって、音色はかなり変
わります。したがって特に、チェンバロの爪は、我々演奏者が自分で削り、つまりヴ
ォイシングして、その時々のプログラムや会場の響きに合わせて、最適化する必要が
あるのです。福山延広教会にあるカークマンの場合、私はこのバック8'を、基本的に
は、ヴァイオリン寄りの音色になるようヴォイシングしました。したがって、第1番
は、ヴァイオリンとチェロの2重奏、というたたずまいで響くことでしょう。
さて、前述のようにこの曲では、第15小節から反行フーガが始まります。ここで私は
手を上鍵盤に上げて、フロント8'で弾こうと思っています。既に述べた通り、フロン
ト8'のジャックは、奏者から見て、バック8'の手前にあって、弦の端近、つまり、や
や駒寄りのところをはじくジャックです。このストップの音は、爪を強め幅広にすれ
ば、コルネット(ツィンク)のような音色になり、逆に爪を弱く細くすれば、フルー
トのような音色が得られます。ここでフルートと言うのは、今のフルートではなく、
バロック時代のトラヴェルソのことで、それは極めて細く軽やかな音です。しかし私
はこれを、やや強めにヴォイシングしていますので、どちらかといえば、低音部はフ
ァゴット、高音部はトラヴェルソというよりも縦笛のリコーダーのように聴こえると
思います。このようにチェンバロの音を、他の楽器の音色に例えることは、バロック
時代の人々が好んでやっていたことでした。
こうして、反行フーガをフロント8'で弾いた後、最後に元の主題が帰ってくるところ
で、私も再び両手を下鍵盤に降ろして、最初と同じバック8'で第1番を閉じたいと思
います。
続いて、第2番。私は、右手を上鍵盤に上げて、フロント8'、左手はそのまま下鍵盤
でバック8'。つまり、先ほどの比喩を使うならば、リコーダーとチェロの2重奏で、
この曲を聴いていただきたいと思います。前述のように、この曲にはカノンの手法が
用いられていますが、そのために、右手声部と左手声部は、しばしば接近し、時に交
差します。ピアノなどでこれを弾いた場合、交差した声部を聞き分けるのは、やや困
難ですが、チェンバロでは、種類の異なる音色によって、これをはっきり聴こえるよ
うに、弾き分けることができるのです。
第3番。私が選んだ音色は、フロント8'+バック8'+4'です。以前に述べたニ長調の性
格を思い起こしてください。この調は、最も良く鳴る、華やかな調です。これに呼応
して、チェンバロのフル・ストップ、つまり、3セットの弦を全て鳴らす、最大音量
のレジストレーション(ストップの組み合わせ)を使います。
第4番。私はこれを、フロント8'+4'に、さらにバフ・ストップをかけた音色で聴いて
いただきたいと思います。これは、バッハの二男エマーヌエルも使っていた(おそら
くは父親から引き継いだ)組み合わせですが、今日のチェンバロ演奏では、ほとんど
聴かれない音色です。軽やかでもあり、華やかでもあり、それでいて、バフ・ストッ
プのドライな性格も加味されていて、私の大好きなレジストレーションの一つです。
第5番。ここで私は、ハープ・レジスターと呼ばれる音色を使おうと思います。これ
は、上鍵盤で弾くフロント8'にバフ・ストップをかけ、さらに、下鍵盤のバック8'を
オフにすることで得られる響きです。バフとは、前述の通り、弦の駒際に軽く皮革片
を触れさせる装置で、これにより、倍音がカットされます。この状態では、リュート
に近い、比較的乾いた音になります。ところで、このフロント8'のジャックは、カー
クマンではジャックの左側に張られた弦をはじきます。反対に、バック8'がはじくの
は、ジャックの右側の弦です。ここで、バック8'をオフにすると、この右側の弦が解
放されます。つまり、いつでも鳴る状態になるわけです。(ストップがオンのときに
は、ジャックに装着されたフェルト片によって、弦はミュートされます。鍵盤を押し
下げて、弾いた時にのみ、このミュートが解除される仕掛けになっているのですが、
ストップをオフにすると、弾く弾かないに関わらず、常に弦は自由に響くことのでき
る状態になるのです。)
そうすると、左側の弦がはじかれて鳴った場合に、すぐ隣の右側の弦も、はじかれも
しないのに、一緒に鳴る、という現象が起こります。つまり、共鳴弦として働くので
す。この結果、ハープに近い、快い音色が得られるというわけです。
第6番。この曲は、『インヴェンツィオン&シンフォニア』30曲中唯一の前後半、繰
り返し付の2部形式の曲です。このような場合、まずはバック8'で始め、繰り返しは
フロント8'で弾くのが、チェンバロ演奏の伝統における通例です。私もここでは、そ
の通例に従いたいと思います。
第7番。わたしはこれをナザールを使って聴いていただきたいと思います。ナザール
は、特別なジャックを用いて、弦の駒際をはじくことにより、鼻にかかったような音
を出すストップで、カークマンの場合は、ジャックの左側の弦を使います。このとき
右側の弦を開放する、つまり、バック8'をオフにすることで、共鳴効果を加えること
ができます。これにより、さらに幻想的な響きを得ることができます。(ナザールと
いうストップ名も、オルガンから借用された用語です。オルガンでは、1オクターヴ
と5度上の音を出すパイプを付加することで、この効果を生み出しますが、チェンバ
ロでも、弦をはじく位置を計算して、ジャック列を斜めに配列し、ちょうどこの5度
が強調されるよう、配慮されています。)
第8番。これには、いろいろな可能性があって、私としてもかなり迷うところなので
すが、今回はバック8'+4'という組み合わせで弾きたいと思います。この曲の主題に
は、8分音符のトランペット音型と、16分音符で細かく動く弦楽器音型が含まれてお
ります。その両方を表現するのに、このレジストレーションは最適だと考えます。
なお、この場合、フロント8'をオフにして、共鳴弦として使うかどうか、迷うところ
ですが、これは、当日の会場の響きを聴きながら、その場で決定したいと思います。
第9番。寂しさと厳しさを湛えたこの曲を、私はフロント8'のソロで弾きます。この
とき、バック8'はオンのままにし、共鳴効果は使いません。これにより、やや乾いた
音色となりますが、むしろ、この曲の場合には、それが相応しいと思われます。
第10番。私はこれを、バック8'+フロント8'+4'、それに、フロント8'にバフ・ストッ
プをかけた音色で、お聴きいただきたいと思います。これは、華やかで、豪快な音で
すが、歯切れがよく、軽やかでもあるという、実に心憎い味わいを出せる組み合わせ
です。この曲の性格には、これがいちばん合っているように、私には思われます。
第11番。ここで私が選んだのは、バック8'+フロント8'、それに、バフ・ストップ、
つまり、直前の第10番に使った音色から、4'を除いた組み合わせです。少し乾いた、
落ち着きのある音色になります。
第12番。ここで、私はバフ・ストップをオフにして、バック8'+フロント8'という単
純な組み合わせを使いたいと思います。
2列の8'の合奏です。これは、時に弦楽合奏のようにも聴こえますし、ヴァイオリン
+オーボエのユニゾンのようにも聴こえます。タイアーと私の設計によるカークマン
では、下鍵盤を押し込んで、ドッグレッグ・ジャックによるカプラーを使って、この
レジストレーションを作ります。このとき、二つの8'のジャックが同時に動くわけで
すが、弦をはじくタイミングは、ほんの僅かにずれるよう、調整します。これによって
音に重厚な厚みと伸びが生まれ、鍵盤は軽やかに動くようになります。しかし、この
ずれの調整が、なかなか大変です。ずれ過ぎるのは勿論ダメです。耳にはほとんど聞
き取れないほどの、ほんの僅かなずれでないと、うまく働かないのです。
第13番。私はこれを、フロント8'+4'の組み合わせで聴いていただきたいと思います。
全体的には4'がメインで、これを支えるように、オクターヴ下で、軽やかで柔らかい
8'が程よく鳴る、という音像です。これは、オルガンで、やはり軽やかな曲にしばし
ば用いられるフルート8'+プリンツィパル4'という音色に似ています。
この曲の主題は、素早く駆け上がるような分散和音でできており、フルートやリコー
ダーの演奏を彷彿とさせます。
第14番。ここでは、4'のソロを使います。4'は、通常の音高よりも1オクターヴ高い
音を出すストップです。これをソロで使う場合、バック8'はオフにして、下鍵盤で弾
くわけですが、カークマン・チェンバロの場合、ここでフロント8'もオフにして、2
列の8'を共鳴弦として使うことができるのです。もちろん、共鳴弦を1列だけにする
ことも可能なわけで、この選択にも、ちょっと迷うところですが、やはり、当日の響
きを聴きながら、最適な方を選ぼうと思います。
この曲では、全体のゆったりとした流れの中で、冒頭の鋭いリズムを聴かせる装飾音
型が美しいコントラストを創るわけですが、この装飾音型は徐々に密度を増し、クラ
イマックスでは、この音型を両手で連続的に繰り返します。この音型はバルトフレー
テ(森の笛)と呼ばれる楽器の音色を想起させます。4'は、これを表現するのに実に
ぴったりなのです。
この4'のソロというのは、オルガン演奏では頻繁に用いられる重要ストップです。バ
ロック時代、チェンバロ演奏でも、このストップは大いに活躍したものと思われるの
ですが、今日のチェンバロ演奏では、残念ながら殆ど無視され、聴かれることはあり
ません。
第15番。私はこれを、バック8'のソロ、そして、フロント8'をオフにして共鳴弦とし
て使う、という響きで聴いていただきたい。この、やや甘みを帯びた響きによって、
この曲のメランコリックな魅力を十分に味わっていただけるものと思います。
2012-11-12
2012-11-11
Don't shock the monkey
この神社、すぐ近所なのですが、先日「サルが出た」ということで
旧市内の話題の舞台になったところです。
その後、見かけたという話を聞かないのですが、一体どうなったんでしょう。
サルも、10キロほど入った山では、結構当たり前に見られますが、
こんな海沿いにまで出てくるとは、エサがなくなったのか、
それとも他に原因があるのか、どうなんでしょう...。
先日、となり町では、田にイノシシが入って困ったという話も聞きました。
で、どうしても思い出してしまうこの曲(こじつけっす・笑)。
"Shock the Monkey" as "a love song" that examines how jealousy can release one's baser instincts; the monkey is not a literal monkey, but a metaphor for one's feelings of jealousy.(P.G)
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