たった5箇所とは言え、高橋悠治が同じ人を相手に即興演奏の「ツアー」に応じたのは、考えてみれば不思議な気がする。いくら即興と言っても、回を重ねていくと、定型化していく部分が必ず生じてくるだろうから。定型化することがいけないとは言えないかもしれないが、それははじめに求めていた意図とは離れていくだろう。即興が孕む不確定性や偶然性は、失敗と隣り合わせの場所で、輝きをもつものだから。つまり、内橋和久のギターとダクソフォンは、しかし、推測不可能な鮮度を長く持ちうるということだろう。
即興音楽にも、おおらかな起伏や山場や一致、つまりストーリーのようなものは自然と生じてくるものだ。この夜のデュオもたしかにそれはあった。それでも、いままであった何かに擬えることができるようなものではなかった。
ピアノとギター/ダクソフォンという組み合わせによるところもあろう。譬えるべき型がそもそも存在しないのだから、表出される音楽はあくまでも自由だ。これが、たとえばギター、ベース、ドラムという組み合わせだったとしたら、一つの定型に収斂されるのは容易だ。(アルタード・ステイツが長く続いているのは、そのことへの抵抗なのかもしれない)
とくにこの二人は、音楽が型にはまっていくことを意識的に避けようとしているように思えた。ということは、聴く者にとっては、放出される音の飛沫を、無心に楽しむことが出来るかどうかということが、試されることになる。音楽の意味など追ってはいけない。
今回はお客さんが入らないだろう、と半ばあきらめていましたが、ふたをあければ、すし詰めの満員となりました。今回もまた多くの方々にお世話になりました。それにしても、日曜日の夜に、こういうライヴに興味をもって足を運んで下さる方々が、決して少なくないとは、私たちの街も捨てたもんじゃないな、とたいへん嬉しく思いました。
(全文・主宰 写真,改行・optsuzaki)