武久源造=『ゴールトベルク』を終えて
店主が的を射た感想をすでに述べておられるので、間借り人としてはちょっと書きにくいところですが、自分なりの印象を心覚えに書き留めておきたいと思います。
『ゴールトベルク変奏曲』を今回のように一台の楽器で全曲通して演奏することを、作曲者が意図して書いたか否かについては、議論があるところです。武久源造も、奈良での演奏会では何回かにわけて、この曲を演奏しているようだし、最近観たDVDでは各変奏曲を、チェンバロ・フォルテピアノ・オルガンにわけて演奏していました。2000年に福山で演奏した際には、2台のチェンバロでした。そして3曲1セットの変奏曲ごとに武久源造の解説が入るというものでした。
つまり、『ゴールトベルク変奏曲』は、全曲通すか何曲か選んで演奏するか、一台で弾くか何台で弾くか、さまざまな試みが許容され得る曲だと言えるような気がします。
私自身の好みで言うと、全曲を通して、それも出来るならば繰り返しも含めて、じっくりと聴きたい、と思っていました。
変奏曲のいくつかを演奏会の中に挿入するというやり方も、それはそれで素晴らしい味わいがあるに違いないのですが、『ゴールトベルク変奏曲』を全曲通して聴くと、ゆったりと流れるストーリーが背後に隠されているような気がするのです。それは言いようのない歓びなのです。この日の演奏も、語られざるストーリーを感じながら、音楽と向き合っていました。
店主が申す通り、前半は楽器に小さなハプニングがいくつかありました。プログラムには「復調なった」と書きましたが、実はこの日については調子がいまひとつでした。曲と曲の間に短時間ながら、調整をしなければならないことも少しだけありました。途中から、楽器の鳴りもよくなり、そうなると武久源造の技が冴えまくります。終盤では曲と曲の間を詰めて、一気に雪崩れていくのでした。第29変奏のほとんどノンビートと言えるようなスピード感には息を呑みました。そして、続く第30変奏の大団円、繰り返しを省いた最後の「アリア」でのつぶやきは、緩やかに見えたストーリーがしっかりとした輪郭を描く場面でした。振り返ると、前半の小さな躓きも長い旅路の中での一つの風景のように思えるのです。
そして、今回の『ゴールトベルク変奏曲』で特筆されるべきは、音色の多彩さでした。4フィート、バフ・ストップ、カプラー、そしてナザールなどを自由に駆使して、いともあでやかな花々を、道々に咲かせるのです。おそらく、作曲者バッハ自身も、あるいは18世紀中盤にロンドンでカークマン・チェンバロを演奏していた人にとっても、こんな多彩ないろあいをもった『ゴールトベルク変奏曲』は想像出来なかったに違いありません。しかし、想像しえなかったとしても、可能性はあったはずです。そこを、現代の感性が具現化したと言っていいでしょう。
「古楽」演奏は、いつもその演奏がオーセンティック=歴史的に正しいか、ということが一つの価値軸になっていると思います。しかし、演奏するのもそれを聴くのも、いまを生きるわれわれです。オーセンティックでありながらも、それを超える新しい価値を創造すること、そこらあたりが、「古楽」を聴くほんとうの妙味であるような気がします。その意味で、武久源造のいう「新しい音楽」「未来系」という言葉の本質的な部分が、端的に示された演奏であったように思いました。
今回も、牧師先生をはじめ教会関係者のみなさまにたいへんお世話になりました。この拙文がお目にかかることはないでしょうが、そうであっても、ここでお礼を申し述べておきたいと思います。
(全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)