今回のプログラムは、どれも皆様には既にお馴染みの曲ばかりだと思いますが、ただ
一つ、私のソロ曲は、幾分珍しいと思われるかも知れません。
バッハは手鍵盤のみのためのトッカータを7曲、ペダル鍵盤を必要とするトッカータ
を4曲、ないし、5曲残しております。トッカータとは英語のタッチTouchと同じ語源
を持つ言葉で、鍵盤楽器独特の華麗な技巧を伴う自由形式の作品を指します。自由形式ではありますが、たいていは、テンポの揺れ動くようなラプソディックな部分と、
比較的厳格なスタイルによるフガート部分が交代する、というお決まりのパターンで作曲されるのが通例でした。たとえば、本日演奏いたしますニ長(BWV912)の場合には、全曲中に、ソナタ風の部分が一つ、そして、フーガが二つ含まれています。その間に、テンポの自由な即興的部分が置かれ、それらが切れ目なく演奏されるわけです。
ところで、この曲には、バロック時代のドイツの作曲家が宗教作品においてしばしば用いた特徴的な音型が優れて計画的に使用されております。それらを手掛かりに、バッハの創作意図を推量するならば、この曲は、キリストの復活の物語を描いた作品で
あることが分かります。そもそもニ長調という調性は、トランペットに結び付いた調性であり、バッハやヘンデルが、そのカンタータやオラトリオでキリストの復活を表す時には、決まって用いた調でもあります。
冒頭の上向音型は、あたかも門が開かれるような動きであり、夜明けを暗示しているかのようです。イエスが十字架につけられてより三日目、マグダラのマリアはイエス
が葬られた墓に赴きます。最初のソナタ風の部分は、行進曲のようであり、失意と期待との間を揺れ動きつつ墓へと急ぐ彼女の足取りを描いています。
さて、墓に着いてみると、墓石は転がされており、そこにイエスの亡骸はありません。
それを表すかのように、大石をごろごろと転がすような、あるいは、地震を表すかのような音型が現れ、それに対して途方に暮れるマリアの心が表現されます。
次に登場するのが、嬰ヘ短調の美しいフーガ。ここでは上向と下向音型が波状的に織りなされ、さらに、ぐるぐる回るような旋回音型が特徴的です。これは、マリアの心の動揺、あれこれと考え悩む様を表しています。
そして、その後、まるで、レチタティーヴォのような、極めてドラマティックなラプソディー部分が来ます。ご案内の通り、ある福音書によれば、ここで、天使が現れて
イエスが既に復活されたことを告げます。また別の福音書では、マリアは、復活した
イエスに出会って、親しく呼びかけられています。
いずれにせよ、マリアは痛く驚嘆し、ついには歓喜に震えつつ、弟子たちのところに帰って行くのです。バッハはその様子を、チェンバロ独特の技巧を巧みに用いて、見事に表しています。
そして、最後のフーガ。これはもう、悦びの極地の表現であるといっていいでしょう。
以上、極めて大雑把に述べてきましたが、ここに示した解釈は、何もバッハが楽譜にそのような指示を書き込んでいるわけではありません。従って、私の個人的な見解の域を出ないもの、と一般には言われかねないものかも知れません。実際、細部においては、私の私的な解釈も交じっているのは確かです。しかし、バッハがここに意図的に用いた数多くの音型は、彼の考えを雄弁に伝えており、いわば、音楽の言葉によって、彼は明確な意図を作品に刻み込んでいるのです。その意味では、大筋において、
上述の内容は、まぎれもなくバッハの考えであったと言うことができます。これは、
バロック時代の音楽修辞学の見地からすれば、誰の目にも明らかなことなのです。そして、このような考え方は、最近、欧米の先端的な研究者やオルガニストの間では、
既に、一種の常識となりつつあることを、ここに付記しておきます。
時あたかも、復活祭とペンテコステの間の5月。キリストの復活とその後のキリスト教の歩みについて思いを致すのに相応しい季節です。
(全文・武久源造 写真,一部校正/改行・石原健)