5月26日(日)、この日は、31年間福山延広教会で牧師を務めてこられた、石塚一(いしづかはじめ)先生が退任される、その最後の礼拝の日であった。石塚牧師と延広教会のみなさんには古楽の演奏会に快く礼拝堂を貸してくださったり、さまざまな場面でお世話になってきた。東京から武久源造さんも石塚先生の最後の礼拝に奏楽したいと駆けつけた。そういうわけで、私もこの記念すべき礼拝に与ることにした。
会場につくと、礼拝の前奏として高らかにオルガンの音がこだましていた。バッハのBWV552-1の「プレリュード」だ。この日は教会暦で三位一体節にあたる。それに相応しい選曲であり、堂々たる演奏だ。(この曲に関する武久源造の神学的解釈は、『オルガンの銘器を訪ねてVol.4』ALCD1094に詳しい。)
礼拝の始まりに、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはこう語った』の冒頭が、武久源造さんのオルガンで演奏された。石塚牧師のリクェストらしい。讃美歌では、教会の仲谷沙弥香さんがオルガンを、武久源造さんがチェンバロを弾き、その素晴らしい響きに思わず聴き惚れた。
福音書の朗読では、本来三位一体主日に読まれる箇所をあえてやめにして、石塚牧師の「講話」に関係する箇所として、マタイ15;21-28「カナンの女の信仰」が選ばれ朗読された。
さて、その「講話」は、「聖書をどう読むか」と題され、聖書に書かれたことを教条的に受けとめたり、そのまま鵜呑みにするのではなく、聖書を批判的に読むための態度を指南された。この日の朗読箇所は、マタイ福音書の特徴として挙げられるユダヤ人中心主義が明瞭に示された一つのサンプルであり、「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった」の箇所は、イエス自身が語ったものではなく、マタイ福音書の著者の付加であると推測される、と語られた。
そして、「真理は人を自由にする」という言葉を最後のメッセージとして、石塚牧師は説教台から降りられた。蓋し、これこそ石塚牧師の貫かれた態度であったに違いない。最後まで寸分のブレもなく職務を遂行する姿は、実に堂々として見えた。
礼拝の後奏では、武久源造さんが「プレリュード」に続く「フーガ」(BWV552-2)を演奏し、石塚牧師引退の花道を飾った。演奏会とはまた異なった感動的な場面に立ち会えたことを歓びとしたい。
(全文・主宰 写真,改行・石原健)
(全文・主宰 写真,改行・石原健)