実を言うと、クープランはあまり得意なほうじゃない。バッハのようなダイナミックなドラマがあるわけではなく、深い精神性が感じられるわけでもない。いささか起伏に乏しく、短い曲が多いわりには冗漫に感じる。つまり、バッハとは違う美意識が支配する音楽であり、そこに価値を見出すことがかなわなければ、クープランを愉しむにはいたらないということだろう。
それでも、武久源造がたびたび我が街を訪ねてくれるようになり、演奏会でクープランの小品を奏でるとき、その美しさにはっと息を呑むことがある。どうしてもやり過ごすことのできない音楽――。
この日のコンサートの半分は、筆者がリクエストしたコレッリのソナタであったが、もう半分は、演奏家たちの合議でクープランが選ばれた。結論からいうと、ほぼ同時代のイタリアとフランスの巨匠の音楽は、相互の特徴を際立たせることになり、たいへん面白いコンサートになった。
コンサートは、クープランの『王宮のコンセール第3番』で幕を開けた。「コンセール」と、「コンサート」「コンチェルト」は、もともとは同義であろうが、こんにち一般的に流通している「演奏会」あるいは「協奏曲」とはやや意味を異にしている。まあ「合奏曲」くらいだろうか。この音楽には、イタリアに始まった、各楽器が競い合うという意味での「コンチェルト」の雰囲気は乏しい。対比よりも和合とか融和とか、そんなことを感じさせる。短い舞曲を連ねるというやりかたも、いかにも宮廷の典雅を感じさせる。
一方で、コレッリのソナタは、すでに充分にヴィルトゥオーゾ的であり、美しい旋律と技巧を前面に押し出したヴァイオリンは、快哉!と叫びたくなる。また、通奏低音との対比も明快で、競い合う「コンチェルト」そのものであった。緩急緩急という教会ソナタ形式も凛としたメリハリを感じさせる。
つまり、両者は何から何まで対照的なのだ。
クープランの2曲目は、『ヴィオール組曲第1番』だった。筆者は、ヴィーラント・クイケンとロベール・コーネンのCDを聴いていたが、どうもこのCDは好きではなかった。どこかもこもこして不明瞭で覇気に乏しいように聞こえた。平尾雅子のヴィオラ・ダ・ガンバの音は、悠揚として迫らず、ふくよかでたっぷりとした情感を湛えていた。それでいて細やかなニュアンスに富んでいた。これは、CDで再生できる音楽ではない。低音も素晴らしいが、中高音へのすべるような上昇も美しかった。かつて聴いた、鈴木秀美の5弦のチェロピッコロを思い出した。それでもチェロは男性的な強い響きがしたが、ガンバは女性的、というより中性的で不思議な艶めかしさがあった。コンサート本番もさることながら、リハーサルで間近に聴いたガンバの音の美しさは譬えようがなかった。遠く離れてみるとだんだんと細部のニュアンスが曖昧になり表情は薄くなっていく。ごく間近でしっとりと耳を傾ける楽器、まさにサロンの楽器のように思えた。
終演後の打ち上げでの、平尾雅子の話はたいへん興味深かった。6弦のガンバを長く弾いていたが、フランスの7弦のガンバでマレを弾いたとき、その音が豊かに横に広がっていくようなのに、これだ!と思った。フランスのバロック音楽には、宮廷人のちょっとした素振りとか、わかる人にはわかる音楽の表情がたくさん隠されている。――そんな中身のことを、喜びに溢れた表情で語るのだった。筆者は、ちょうど読んでいた岩波文庫の『失われた時をもとめて』第2巻に出てくる、ヴエルデュラン家のサロンでのスワンとオデットの恋の駆け引きを思い出して、思わずそのさわりの部分を紹介した。すると平尾雅子は、目を丸くして同意を示してくれた。
ああ、そうかあ、フランスの粋人たちの、開かれつつ閉じ、閉じつつ開かれた、不思議な美意識が時代は隔たっていても、符号する部分があるのだ―。
若松夏美の伸びやかで美しい歌を聴きたいと思ってコレッリをもとめたのが、この企画の始まりだったが、それはそれで十二分に堪能しつつも、また新しい美の発見が随所にあった。大塚直哉の、二つの個性的な弦を支える的確な伴奏も、そして、端正で品位ある独奏も武久源造とはまた違う美しさがあった。
ともかく、クープランの面白さを読み解く何かを得たような気がする。それが大きい。何度も挫折した『失われた時』もやがては読了できるだろうか。
聴きに来て下さったみなさま、ありがとうございました。すでに何度も聴きに来て下っている顔がおおぜい見えました。これからも、ごいっしょにいい音楽を聴きましょう。
(全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)